[1]自己紹介をお願いします
私が就職活動をしていた1980年代の初頭は、マスコミ関連業種の人気が高く、学生にとっては難関となっていました。私は広告制作の仕事にあこがれていたのですが、当時他社よりも早い段階で内定をくれたのがリクルートでした。今ほどメディア産業界で盤石なポジションを獲得していなかったリクルートではありましたが、成長のダイナミックさに惹かれ入社することを決めました。
希望通り企画制作部門の仕事に就くと、自分なりに満足できる成長も得られたように思えましたが、やはりリクルートの最大の強みは営業部門にあります。もっと会社のことを知り、今までと異なる環境でさらに成長しよう、という気持ちも働き、私は営業への異動を希望しました。
営業に異動後5年が経過し、企画提案型のセールス戦略も当たって営業成績を上げることができたので、私は大阪支社の営業マネージャーに就任しました。その後、東京に異動した後も、営業と制作でマネージャーを歴任。この頃に人材の育成や、部下からの信頼獲得等でいろいろと苦労をしたことが、後々の私にとって貴重な体験となりました。
1992年にP&Gへ転職した理由の中には、当時転換期にあったリクルートの中で変化に躊躇しているようにみえた事業部の方針と私自身の考え方に温度差を感じ始めていたこともありました。また、3人目の子どもが生まれたのをきっかけに、地元関西に戻って新しいキャリアを追い求めてみようか、という気持ちが働いてもいました。
ちょうど関西に本拠地を置くP&Gの日本オフィスがメディア・マネージメントの職種で人材募集をしていることを知り、応募を考えました。P&Gは大阪でのリクルート時代に私のクライアントでもあったので旧知の人事の方に募集広告の件で連絡してみると「舛谷さんが来てくれるのなら、メディアではなく人事の仕事をやりませんか」と言われたんです。
リクルートで営業部門に移った時も、「挑戦してみよう」という気持ちからでしたし、それが結果として良い経験になりましたので、このときもポジティブな気持ちで受け容れました。
それまでリクルートでも担当するクライアントの人材採用に携わりましたし、マネージャーとなってから人材育成というものの奥深さや、経営の要点ということも少しずつ理解できるようになっていたこともあり、初めてのHR分野での仕事に対して、あまり違和感を覚えることなく馴染んでいくことができました。
結局、2009年にバイエルに転職するまで、私は一貫してP&GでHRを担当しましたが、一時期は総務や福利厚生も業務範囲に含まれていました。オフィス・マネージメントチームを任された時には、働く環境であるオフィスをよりオープン化していこう、というプロジェクトをリードしたのですが、社内的にはいろいろ逆風にもさらされました。
それまで部屋持ち、秘書持ちだった上級社員の個室や秘書を取り上げ、皆と同様のオープンオフィスに変えていったわけですから、トップマネージメント以外には誰にも喜ばれない仕事でした。
また日本独自の慣行である大卒の総合職社員に残業を払うというルールをグローバルポリシーに近づけていくようなプロジェクトを任された際には、自分よりはるかにシニアなプロジェクトメンバーをリードする経験をしました。おそらくこの頃に、役職や年功などの日本的な序列を気にせずプロジェクト責任者としてのリーダーシップを発揮することの大切さを学んだと思います。
その後もトップマネージメントと直接話をしながら、組織デザインや人材育成に関して様々なチェンジプロジェクトに取り組み、多くを実現させることができたので、CHRO的な仕事を学び楽しんでいました。そんな折に「HRのディレクターになってほしい」というオファーをいただいたのがバイエルだったんです。
P&Gに残ってHRのヘッドをめざすことも考えましたが、人生にとってタイミングも大事な要素ですので、自分のリーダーシップを試す機会ととらえ、また家族とともに住み慣れた関西に拠点を置き続けられる利便性も考慮しバイエルのオファーをお受けすることにしました。
[2]現在の社内での役割について教えてください
日本のバイエルには、私が担当する医療用医薬品部門のほかにクロップサイエンス、コンシューマーヘルスなどのビジネスがあり、各事業部門を担当するCHRO(HRビジネスパートナー)がいます。役割は様々ありますが、やはりビジネスのパフォーマンスを高めるための人材戦略、組織風土の醸成というのが最大のミッション。
この大きな目標に向かい、バイエル薬品の社長であるカーステン・ブルンと彼のリーダーシップチームメンバーとの対話・意思疎通を重ねながら、戦略を実行していくのが私の主たる役割です。
例えば、日本企業では人材育成の責務を人事部門が背負うのが当たり前と考えるところが多いように思いますが「人を成長させる」ことの責任者は「当人とその社員が所属するライン・マネージャー」というのが私たちの原則です。
バイエルはグローバル企業ですし、日本オフィスでもグローバルに活躍できる人材が不可欠ですから、日本でしか通用しない慣行や発想を新しくてグローバルなものへと切り換えていくのも、私たちHRが貢献すべきことと考えます。[3]小中学生時代はどんなお子さんだったのでしょう?
大阪の堺市で生まれた私は、とくに目立つところはない子供だったのではないかと思います。成績が特に優秀だったわけでもなく、スポーツが並はずれて得意だったわけでもなく、特徴といえば「他人と違うことがイヤではない性格」くらいのもの。男の子にしては珍しくオレンジ色のパンツや赤いシャツを身に着けたり(笑)。
中学に入ると転校生に初恋をしまして、その成績の良かった女の子に認めてもらいたい一心で突然勉強に精を出しました。そうしたら、本当にその後成績が良くなりましたよ。[4]高校、大学時代はどのような学生でしたか?
高校は比較的自由な校風だったので好きなことをやってましたね。中学時代の努力もあって初恋の彼女と同じ高校に入ったので(笑)、学業成績はトップグループにいられるようになっていたものの、音楽好きな仲間とバンドを組んだりしていました。当時流行っていた長髪にして教師によく嫌味を言われましたね。結局、大学に進んでも音楽活動を続け、3年生の時には軽音楽部の部長も経験しました。
大学の移転の時に部室の確保を学校側と折衝したり、学園祭の仕切りを任されたり、結構面倒な仕事があるんですけれども、イヤではありませんでした。あらためて振り返ってみると、大学時代に限らず、小中高でも仲間内でリーダーというか、取りまとめ役、折衝役みたいなものをやっていましたね。たぶん、私が自分の言いたいこと、やりたいことを言ってしまう性格だったから、向いていると思われたんじゃないでしょうか。