[1]自己紹介をお願いします。
私が大学を卒業したのは1980年代の終わりです。就職したのはP&Gジャパン(以下、P&G)でしたが、当時の日本ではまだ今ほどP&Gの知名度は高くありませんでした。私も就職活動で初めて社名を知ったほどです。ではなぜここに就職しようと決めたかというと、「採用に手間をかけ、じっくりと学生を選んでいる会社だ」と感じたからです。
バブル景気真っ盛りの頃でしたから、就職戦線は完全に売り手市場です。学生にとって高嶺の花だったはずの金融機関や大手商社でさえ、早期に学生を確保しようと、ほんの2〜3度面接しただけで内定を出していました。そうした時代の趨勢に反した動きを示していたのがP&Gでした。グループディスカッションを2度に分けて実施し、その中から選ばれた者だけがようやく個人面接を受けられる、というような採用の仕方をしていたのです。
名のある大企業に楽々入れる状況があるのに、なぜP&Gを選んだかと言えば、私は当時の世の中の空気に違和感を抱いていたからです。「バブル景気はいずれ終わる。この状況は間違っている」などと論理的に分析していたわけではなく、直感的に薄気味の悪さを感じていました。ですからP&Gの採用手法を、むしろ歓迎すべきこととして受け止めたわけです。「しっかり学生のことを見極めようとしている」と思ったんです。
もう1つ就職した理由を挙げるとすれば、「これから成長しようとしている外資系企業」だったという点です。これまた直感的な考えでしかなかったのですが、「外資やったら、俺でも頑張れば出世できるんやないか」という思いに駆られ、入社する気持ちを固めていきました。
さて、入社してからの私がどうだったかというと、ともかく泥臭い仕事の連続で、何度も音を上げそうになっていました。どうしても今の人たちはP&Gの名を聞くとマーケティングのイメージが強く、スマートな仕事の進め方を思い浮かべるようですが、私の場合はセールス採用でした。しかも当時のP&Gの営業部隊には、セオリーらしきものも整っておらず、ひたすら担当するエリア内を毎日しらみつぶしに歩いて周り、代理店や小売店に自社製品を営業していくほかなかったんです。
ただし、この経験が結果としては私にとって良いものになりました。学生時代までの私は、どこか鼻持ちならない性格だったのですが、泥臭い仕事がその性根を叩き直してくれたと思うからです。根拠のない自信で鼻高々とすごしていた若造がやがて素直になり、謙虚になって、取引先の年長のかたなどに仕事のいろはを教えてもらったりするようになりました。
そうして自分なりに奮闘しているつもりでも、成績はなかなか向上しません。入社4年目には九州への転勤を命じられました。できる同僚は本社に呼ばれたのに、私は転勤です。危機感を強烈に抱くようになりました。「このままやったら、自分は一生うだつが上がらないかもしれない」と。だからといって何か気の利いたことをしたわけではありませんが、これまで以上に、がむしゃらに営業の仕事に取り組み始めました。そうして3年連続で売上ナンバー1になって、ようやく本社に呼んでもらうことができたんです。
任されたのは企画の仕事でした。セールス・プランニングの担当者として本社部門と営業の現場との間を行ったり来たりして、業績向上に結びつけていくのが私の新しい使命になりました。ひたすら汗をかいて、足を使って営業してきたような私でしたから、企画についての知識などありません。周囲の同僚や上司と自分との間に大きなギャップが存在していることを思い知らされました。
しかし、実はこの時に感じたギャップもまた、結果的に私を成長させてくれました。与えられた仕事をこなし、言われたことを理解するのにやっとの状態でありつつも、仕事から解放された時間には自主的に勉強をすることが習慣として定着していったんです。成果は少しずつですが現れました。アメリカにある米国本社へ勉強に行かせてもらったり、というチャンスも獲得できるようになりました。
昇進もかない、仕事にもようやく自信を持ち始め、順調さを感じられるようになりました。ところがその矢先、米国本社で決定したのがジレットとの合併でした。今度はこの一件が私に大きな影響を及ぼしていったんです。
P&Gとジレットという大規模なグローバル企業同士の合併は、当時幾度もニュースに取り上げられ騒がれましたが、社内もまた大きな変化の波が押し寄せ、騒がしくなっていきました。類似した取扱分野を持つ両社の合併にあたり、組織をどうするのか、異なるカルチャーを持つ両社の社員をどう融合させるのか、余剰人員問題にどう対処するのか、などなど多数の問題をスピーディに解決しなければいけません。
そこで、P&Gとジレット、そしてマッキンゼーの3社から選ばれたメンバーによる経営統合対策チーム的なものが結成されました。驚いたのは、この約50人の精鋭が揃う国際的チームのメンバーに私が選ばれたことです。しかも日本から参加したのは私一人だけ。大抜擢ですから光栄に感じましたけれど、そんな気持ちはすぐに消え失せました。
誰の目で見ても明らかなほど、私は50人のメンバーの中で50番目の存在。あらゆる面で能力の差が歴然としていたからです。それまでは周囲とのギャップを味わうたびに、なにくそと奮闘してギャップを埋め、それによって成長を引き寄せてきた私でしたが、この時ばかりはそうはいきませんでした。あまりにも大きなギャップがあったのです。悔しさや無力感をここまで徹底的に味わわされたことは後にも先にもありません。
それでも日本へ戻り、合併後のビジネスにおいてそれなりに成果を上げていったのですが、すぐにブラウン製品の販売を任されることになり、私はまた勉強の日々を迎えることになりました。なぜなら、ジレット社の傘下にあったブラウンの主力製品は、シェーバーなどに代表される家電品カテゴリーだったからです。
P&G内部のブランドについては、それまでにおおかた携わってきていたものの、それらはいずれも生活消費財の部類です。しかし家電品となると、流通ルートも有力な小売店舗も商習慣も文化も、何もかもが違います。日本市場ならでは、という特徴も多々ありました。それらすべてを学び取り、業績をすぐにでも上げていかなければいけません。
「とにかく頑張ろう」と思いながらブラウン担当チームに出向くと、そこは針のむしろでした(苦笑)。まあ、当たり前といえば当たり前です。合併前からブラウン製品を日本の家電市場で売ってきたメンバーが多数いる中に、合併相手の会社にいた「家電のことを何も知らない男」が送り込まれてきたわけです。しかも配属から間もないタイミングで販売責任者であるディレクターが退職してしまい、組織の論理で私が後任に選ばれてしまいました。
「何もわからんくせにリーダーなのか」と、私を疎ましく思う感情が彼らの間にわくのは当然でした。ただ誤解がないように言っておきますが、彼らとは最終的に非常に素晴らしい関係を結ぶことができました。必死でギャップを埋めようとした私を認めてくれたんです。ですから、彼らとは今なお時々顔を合わせるほどの仲になりました。
とはいえ、ブラウン担当になってから約3年後には、チーム内のリストラを命じられました。もともと多数の従業員を持っていた2つの会社が合併したのですから、避けては通れない施策ともいえましたが、私を受け容れてくれた仲間に退職をお願いするという苦渋を味わうに至って、ついに私の気持ちの中にも「環境を変えたい」という欲求が強くなっていったのです。
実はダイソン株式会社からのお誘いは、それまでに2〜3度いただいていました。海外の家電ブランドを日本で販売し、一定の成果を上げていたことが目にとまったようです。2010年、当初は謹んでお断りしていたこの話をお受けすることにして、私は転職を決めました。
ダイソンは面白い会社です。多くのメーカーが様々な商品ラインナップを揃えながら競走している家電業界にあって、独自技術で開発したサイクロン掃除機の性能に絶対の自信を持ち、これに絞り込んだ販売戦略で成功した会社。複雑多様なマーケティング戦略をライバル企業が展開する中、エンジニアリングの強みに重きを置いて、シンプルに性能の良さのみを主張して成功した会社。先代社長をはじめとして社内には魅力的な人も多数いました。
私が就いたポジションはセールスディレクター、つまり販売業務の責任者です。業績は順調に伸びました。メインのサイクロン掃除機は少し前に発表したハンディタイプも含め、売上を伸ばしていきましたし、私が入社する直前に発表したエアマルチプライアーと呼ばれる羽根のない扇風機も大ヒットしました。
ところが2011年に入ると先代社長が健康上の理由で急遽退任されることになりました。英国本社から届いた指令は「外部から優秀な経営者人材をスカウトしてくるから、それまで当座の間、麻野が社長代理をしてくれ」というもの。先代社長と離れるのは残念でしたが、ともかく現有勢力で切り抜けていくほかありません。
私としても「当座の代理」という役割をあまり複雑に考えることなく引き受けました。その直後に東日本大震災が発生し、日本全体が混乱する中で、発生した様々なビジネス上の問題点などを、全社員一丸になって乗り越えていくと、短期間の内に業績を50%アップさせることに成功していました。
日本の社会が震災による影響を乗り越えて落ち着くまでに時間がかかったこともあり、ダイソンでも正式な後任社長はなかなか決まらない状況が続きました。それでも2012年を迎えると、ようやく幾人かの候補者に絞り込んだ、という情報が届きました。最終的には創業者であり、本社代表であるジェームズ・ダイソンが候補者と直接面談をして決めることになったのですが、なんと「代理社長」だった私も候補者の1人に選ばれたというのです。
震災の苦境を乗り越え、なおかつ業績をアップさせた功績が評価された、ということでしたが、とにかく驚きました。私が本気で「経営者になる」という事実と向き合い、真剣に考えるようになったのは、まさにこの時だったんです。
このプロ経営者のコンテンツのシリーズに登場してきたかたがたは、もっと早い時期に「社長になるぞ」と強い信念で志したかたばかりだと思いますが、私は違ったんです。たぶん「この会社の経営者になりたい」と前向きに意識したのは、ジェームズ・ダイソンとの面談の1週間くらい前のことです(笑)。「遅すぎやしないか」と自分でも思います。
ただ、本当にこのタイミングで私は「社長になれるものならなりたい」と思いました。そうなると、急に緊張もしてきました。どうすれば選んでもらえるだろう、と考えを巡らそうとしましたが、なにせ面談まで1週間しかないわけです。何もできません。そのまま「その日」を迎え、ジェームズ・ダイソンと二人で話をしました。
仕事の話も少しはしたのですが、おおかたは趣味の話などを和やかに話す時間に終始しました。非常に楽しいひとときではありましたが、社長就任については「あかんかな」と思っていました。しかし、選ばれたのは私でした。嬉しく思いました。大いにモチベーションが上がりました。「どうして自分が選ばれたのか」を教えてもらえないままではありますが、とにもかくにも正式な社長に就任をして今に至っています。