[1]自己紹介をお願いします。
父の仕事の拠点がタイにあったことから、私はタイのバンコクで生まれ育ってきた日本人です。新卒時には日本企業への就職も考えないではなかったのですが、米国の大学を卒業したこともあって、日本企業への就職活動時期とはズレが生じ、結局タイに戻って輸入車の販売代理店へ就職をしました。
扱ったのはボルボとともにスウェーデンを代表する国際的自動車ブランドのサーブ。日本でも高級車イメージのサーブですが、タイでは関税との兼ね合いや国民の基本的収入額の違いなどから、まさに高嶺の花の高級車でした。それでいながらブランド認知度はドイツ車などと比べて低く、1%を切る低水準。「いかに認知度を上げ、なおかつ高額所得者に売っていくか」が私の使命でした。
供給元であるサーブとの意思疎通の問題もあり、絶体絶命のピンチも体験しました。タイでは昔から「ハッチバックは売れない」が定説として浸透していたのですが、どういうわけか100台ものハッチバック車が届いてしまった。理由はどうあれ「売るしかない」。認知度は高くないのに価格は異常に高い。普通ならば「無理」「不可能」なのですが、あらゆる方法を駆使して全て販売し、この窮地を脱しました。
おそらくこの時から、私の心の中に1つのアティテュード、スタイルが根を下ろしたのだと思っています。それは「人が『無理だ』と言っている問題にも、必ず解決策はある」、「不可能を可能にすることにこそ、ビジネスの醍醐味があるんじゃないか」というような発想。これがその後、ありとあらゆる局面で私を突き動かしていく原動力になりました。
ブランド認知度を引き上げていくマーケティング的試みの成功などもあって、次第に経営に近いポジションで仕事をするようになった私は、徐々に「より経営について学びたい」という意識を強く持つようになりました。そうしてMBA取得のための留学を決意したわけですが、学校の選択にもこだわりました。
これからのビジネスパーソンとしての人生を考えれば、自分は確実にインターナショナルなビジネス領域で生きていくはず。それならば、どこよりも高いレベルでインターナショナル・ビジネスが学べる学校で学びたい。そう考えてサンダーバード国際経営大学院ビジネススクール(以下、サンダーバード校)に入学したのです。
卒業後は自動車メーカーへの就職を志しており、米国の自動車ビッグ3(クライスラー、GM、フォード)からもオファーをいただくことができていたのですが、最終的にはコンサルティング会社へと就職をしました。しかし「自分が提案したこと・言ったことには責任を取りたい」と強く思っていた私には、コンサルタントは向いていない、という気持ちを抱えるようになっていた頃、クライアントであった日本コカ・コーラからお話をいただき、転職しました。
入社早々、長年グローバルスポンサーを務めているオリンピックでの活動などを通じ、コカ・コーラ独自の価値観をたたきこまれた私は、マーケティング部門への配属を強く希望していたのですが、「日本コカ・コーラのマーケティング担当」といえば、当時から絶大な人気を誇り社内の人材も豊富でした。空きがない、ということで希望はすぐにはかないませんでした。それならば、与えられたミッション、すなわち広報で実績を重ねていこうと切り替え、環境経営に取り組みました。
2000年代初頭ですから、今ほどエコロジーという考え方や、それを経営に結びつけていくようなCSR的アプローチなども企業の間では定着していませんでした。日経が環境経営企業ランキングの発表をスタートしていたものの、日本コカ・コーラは当時100位までにも入れない状況だったのです。「よし、じゃあこのランキングを一気に引き上げよう」というのが私のモチベーションになりました。
「廃棄物の削減やリサイクルを積極的に行うことで、実は経営にもプラスの波及効果が現れる」のだという主張も含めて、環境に関する情報を「環境レポート」という形で1冊の小冊子にまとめました。ほぼ私一人による手作りです(笑)。
これを携えて、全国各地のボトラー会社を巡り、環境経営の有用性を伝えていく地道な作業が続きましたが、ようやく実を結び、ついには営利団体としては世界で初めて環境経営部という専任部署を設けてもらうことに成功したんです。先に説明した日経のランキングでも一躍20位台にまでジャンプアップさせることができました。
おかげで社内でも「マーケティングをやらせてやろう」というお話もいただきましたし、さらなる意欲もわいてきたわけですが、ちょうどその頃、デルからのお話もいただいていました。コンピュータ販売の世界でデルが独自の経営モデルによって劇的成長を遂げていた時期です。しかも同社でのキャリアのメインストリームとも言える営業本部長としての招聘です。私は再び転職する道を選びました。
最初に任された公共分野担当の営業本部は不振が続いていました。お客様は官公庁や教育機関、大規模医療機関。当然のことながら外資には門が狭く、苦戦を強いられていたのです。
ここまで読み進めていただければ納得してもらえると思いますが、私の経歴はプロフィールだけを見ると華々しく映るかもしれませんが、どこへ行っても逆境からのスタートだったんです。自分を支えてくれたのは「なにくそ」の精神。サーブの時から身につけた「不可能だと皆がいうなら、俺が可能にしてやろうじゃないか」という精神でした。
デルの時には、日本中で話題となったWinny事件が突破口になりました。Winnyというファイル交換ソフトの使用により、自衛隊から内部情報が漏洩してしまった。こうなれば、自衛隊関連施設にあるあらゆるコンピュータ機器を大至急交換するはずだ、それであればわれわれにチャンスがあると直感しました。
デルの強みはスピードと価格です。シンガポールへ飛んで経営幹部を説得し、デルにおいても破格の価格やスピードを約束してもらいました。外資系企業であり人員も日本国内のライバル企業に比べ圧倒的に少ない体制でしたが、徹底した分析に基づく優れた提案、それを可能にする意思決定のスピードと価格によって、私たちは勝利したのです。
私は常に「プロの経営者となってアジアに貢献したい」というキャリアゴールをイメージしていました。バンコクで生まれ育った私は日本人であると同時に、アジア人だという自覚を持っています。
いつかは日本とアジアに貢献できるプロフェッショナル経営者になろうと志してきました。ですから、その後レノボやアディダス・ジャパン、ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント(以下、ソニー・ピクチャーズ)へ転職をしたときも、同じようにアジアへの貢献を意識しながら生きてきたのです。
そうお伝えすれば、私が「自分にとってのキャリアゴール」という覚悟でハイアール・グループに身を転じたことにもご理解をいただけるかと思います。ただ、実際に転職をする時には周囲から反対もされました。
ソニー・ピクチャーズでは『マイケル・ジャクソンTHIS IS IT』の記録的セールス樹立にも成功していましたし、日本・北アジア代表として、アジアの統括を務めていました。
一方、ハイアールはといえば、世界的に見ればナンバーワンの販売台数シェアを獲得していたものの、そのほとんどは中国市場でのものであり、真のグローバルカンパニーとなるためのビジネスモデルを模索しているという段階にありました。
そしてもう1つの担当地域であり、家電大国である日本では「Haier」「AQUA」ブランドが十分に浸透していない状況にあったのです。そのようなこともあり、私に近しい人たちは「なぜ今ハイアールアジアへ行くんだ?」という疑問を感じたのは、ごく当然のことだったと言えるでしょう。
ではなぜ引き受けたのか? わかりやすい回答をすれば、「皆が『難しいぞ』と言っていたから」です。「なにくそ」精神がまたしても発動した。そして「この会社は絶対に苦境をひっくり返して勝利する」と思えたからです。
ハイアールアジアを日本市場でナンバーワンにすることができれば、苦闘が続くかつての家電大国を建て直すことにもつながる。日の丸再生に貢献できる。同時に担当エリアのASEAN諸国の家電市場を席巻することで、アジアの皆さんに素晴らしい価値を手に入れてもらえる。そう思ったからです。
「世界No.1なのにチャレンジャー」なのがこの会社です。こんなに面白い役目を他人に譲るわけにはいきません。必ず勝利して、私自身の夢も実現するべく、ここに来たんです。