プロフィール
1958年生まれ。早稲田大学法学部卒業後、日本電気株式会社(NEC)入社。マサチューセッツ工科大学(MIT)スローン経営大学院修士課程修了。マッキンゼー・アンド・カンパニー インク、ユニデン株式会社人事総務部長、アップルコンピュータ株式会社人事総務本部長を経て独立。現在、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科准教授、株式会社コーポレイト・ユニバーシティ・プラットフォーム代表取締役社長、その他数社のベンチャー企業社外取締役を務める。自律的キャリア開発・リーダーシップの研究とそれに基づく人材育成、組織・人事コンサルティング、およびベンチャー企業への経営支援を行っている【著書】「キャリア・コンピタンシー」(日本能率協会マネジメントセンター)「組織に頼らず生きる」(平凡社)「ラッキーをつかみ取る技術」(光文社新書)他多数
 
キャリア相談
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このコーナーでは読者からのキャリアについての相談を募集しています。小杉氏に聞いてみたいこと、アドバイスしてほしいこと等、キャリアに関する質問をお寄せください。匿名で掲載させていただきます。
 
バックナンバー
[第3回]
卒業 ― 帰国の頃の振り返り
 
[第4回]
帰国後のチャレンジ
小杉俊哉のポジティブキャリアのススメ
 
タイトル
 

1.軍隊系オーナー企業に飛び込む

前職の戦略コンサルティング会社は、知的体育会系だったが、今度は軍隊系と言った方が近いような会社だった。一部上場企業ながら、資本比率から言っても 創業者が実質的なオーナーであった。

コンサルタントには向いていないと思った僕は「メーカーで、マネジメントの仕事をやりたい」と考えていた。その希望を叶えてくれそうだった。グループ本部という創業者でもある会長兼社長直属の部隊で、何をやるかは入社してから自分で見つけるということだった。自分で問題点を探り、それに対するソリューションを提案し、自らがその部門に入ってその実現を推進する。やりたかった仕事だ。コンサルティングにおける一番の消化不良は、提案しっ放し、あとはクライアント任せ、というところにあった。実は今回、転職活動は全くやっておらず、MITの先輩が役員をやっていて、今後の相談をしに行ったところそのまま入れられてしまった、というのが本当のところだ。

最初の一ヵ月、購買部門のプロセス変更などを検討していたが、ある日、米国にいる会長から「おまえも来い。」と連絡があり、その日の便で渡米した。いろいろと研修のつもりで米国子会社などを見せてもらった。

そこでひとつ、気になったことがあった。それは、日本のメーカーと特許訴訟を抱えていることを知ったのだが、本社である日本にはそれを担当する法務部門がなかったことだ。提案するのが仕事なので、早速と思い、ホテルから会社に向かう車のなかで、会長に口頭で法務部の設置を提案した。

直ぐに「よし法務部を作れ、そしておまえがそれをやれ。」という命令を受けた。

「わっ、私自身が責任者ですか?」
「そうだ。何か問題あるのか?」
「確かに法務は3年間やりましたが、残念ながら責任者をやるほどの専門性と経験はないので、そういう人間を探してくるということも含めて、法務部の立ち上げをやらせてください。」と答えた。

「それでもいいから、とにかくやれ!」
「はいっ、かしこまりました!」

ということで、早速帰国して法務部を作って、即座にその日本企業との交渉に入った。ここは体育会系というより、軍隊のような風土だと思った。上司の言葉は絶対命令。おそらく多くのオーナー企業も、これと近いものがあるのではないだろうか。でも、不思議と嫌ではなかった。この様に一方的に命令される経験は今までの人生でなかったので、逆に新鮮だった。

もう時効だと思うが、ちなみに、その相手の日本メーカーとは、以前勤めていた会社だった。運命の奇遇を感じた。部門も異なるし、一担当者であった私など知られているはずもないと、前職のことを話す機会もないまま、知的財産部と交渉を重ね、無事解決した。最後のミーティングで「ところで、小杉さんは以前当社にいらっしゃいましたよね。」と言われた。すべてお見通しで、交渉過程では敢えて言わなかったのだと知り、穴があったら入りたいほど恥ずかしかった。やはり、隠すのはよくないことだと改めて反省した。

2.運命の人事との出会い

その間、法務部門の立ち上げを開始していて、一ヵ月くらいしたところで、会長から「おまえ、法務と人事・総務は似てるから、それもやれ。」と言われた。確かに同じスタッフ部門ではあるが、

「にっ、似てますか?」
「そうだ、同じ様なものだ。」
人事と総務で15人ほどのスタッフだ。自分よりずっと年上の人も当然いる。人事などやったこともないし、それまで実は一人も部下を持ったことがなかったが、まあ何とかなると思った。次の瞬間「はいっ、やらせていただきます。」と答えていた。

ここから、人事のキャリアがスタートした。

会長からの最初の命題は、海外駐在員の給与システムの全面改訂だった。この会社は海外で製造し、海外で販売するというユニークな経営を行っているせいもあって、社員の3分の1が海外にいた。それも米、欧、アジア、オーストラリアと10ヵ国以上に社員が散らばっていた。その給与の決め方がばらばらだったのだ。それを3か月あまりの間に何とか統一したものにした。

また、入社して半年ほど経った3月末、会長がやってきて「うちも年俸制にしよう、来月から実施だ!」と言われた。どうやら新聞の一面に情報通信大手企業のことが記事になっていたのを読んで、そう思ったらしい。

「ちょ、ちょっと待ってください、そう簡単には出来ません。せめて6月まで時間を下さい、それで4月にさかのぼって適用するというのではどうでしょう?」と、とっさに答えていた。

「わかった、それでやれ。ただし、絶対に6月からは動くようにしろ!」

なんとか時間の猶予をつくったが、それでも二ヶ月しかない。本当は9月まで時間を、と言いたかったのだが、思い付いたら即実行を信条とする会長は、そんな悠長なことを決して許さないことは明らかだった。

いろいろな人事コンサルティング会社に相談に行ったが「にっ、ニか月で年俸制?不可能です。」ということでどこからも相手にされず、結局は自分で作るしかなかった。

給与にしても評価にしても、素人だから専門的なことは何も分からない。会長の頭の中にあるイメージを引き出すために、人事システムのプランを作っては、毎日 会長からのフィードバックやアイデアを貰い、また変更する、ということを繰り返し、何とか形だけは作り上げた。

それは、後日、日経ビジネスが特集を組んで取り上げたほど、ユニークな給与システムだった。当時大人気のJリーグにあやかり、社員を、プレーヤー、サブプレーヤー(控選手)、サポーターと分け、プレーヤー/サブプレーヤーは年俸制、サポーターは従来の職能給とした。プレーヤーは主に役員クラス、サブプレーヤーはそれ以外という区分けだ。サブプレーヤーは必ずしも管理職である必要はなく、若手の担当者でも、そのファンクションの責任者であれば有資格だ。反対に課長であっても、その様な責任を担っていない人間は外された。

プレーヤー/サブプレーヤーとサポーターは毎年入れ替える。年俸制はリターンも大きいがリスクも大きいので、サポーターのままでいたければ、それを選択することも出来た。また、職務のポジションと本人の評価を毎年行い、同じ職務でも、実績によって、役職と給与が異なるという、ポジションと本人の区別を行った。

これは今から思えば、その後 盛んに導入されているブロードバンドに近い概念をやっていたことになる。

3.軍隊系オーナー企業の中で身につけたもの
会長と僕と、いずれも人事の素人同志で作ってしまった給与制度は、今考えると恐ろしいが、とにかくそれで会社を動かすしかなかった。トップダウンで、やる、と言えば出来てしまう会社なのだ。毎日接していた会長兼社長は、中途半端な資料を持って行ったり、段取りが悪かったりすると雷を落とした。

「血の通った仕事をしろ!」
「真剣で勝負しろ、木刀や竹刀で戦ってんじゃないよ!」と。

初めての役員会で分厚い資料を配付しプレゼンをした時には「余計な資料を作ってんじゃないよ。俺は一枚半以上は読まねえんだよ!」と、いきなり資料を叩きつけ出て行かれた。

超多忙な会長が出かける際、部屋から出てエレベータで7階から1階に降りるまでの30秒ほどで、決済を仰ぐこともしょっちゅうだった。

そんな中で、要は何かという結論を30秒で伝え説得すること、自分の頭で理解し 自分の言葉で伝えること、とにかく結果を出すことが身に付いたと思う。このような仕事のやり方はコンサルティング時代とは180度違う世界だった。一代で町工場を一部上場企業まで育て上げた上げた経営者の考え方、行動を学んだことは途方もなく自分にとって大きいものだった。

会長との仕事は順調だったが、人事、総務部員のマネジメントは当初難しかった。自身は会社の中で、人事総務部の責任者と会長直属のスタッフという二つの顔を持っていた。会長とは会社の革新を、部下たちとは主に日常の業務の推進をやっていた。人事総務部長になって3ヶ月くらいしたころ、部下たちから呼び出され、部屋に“監禁”され、吊し上げにあった。

「あなたは一体会長の犬なのか、それとも自分たちを守ってくれるボスなのか?」はっきり答えろと迫られた。「もちろん犬ではないが、自分は会長のスタッフとしての役割を担うために この会社に入った。一方で、皆の上司となった以上、絶対にみんなを悪いようにはしないことを約束する。それをこれからの私の行動で証明する。」ということを納得してもらうまで説明し、なんとか“釈放”してもらった。

確かに 会長スタッフとしての方にどうしても注力する割合が多かったのは事実だった。しかし、それでは、部下や他の社員には何をしているのか、を理解されない。そのことを気付かされた。それからは出来るだけ 日々のオペレーションにも力を注ぎ、部員や社員に自分の行動ができるだけ見えるよう注意を払い、可能な限り毎日部員全員と言葉を交わした。そうこうするうちに、日増しに部下たちが自分に好意的になるのが分かり、サポートをしてくれるようになった。それどころか、他部門からの“攻撃”に対して、僕を守ってくれるようになった。嬉しかったし、本当に有り難かった。

人事の経験もない、部下を持ったこともない人間を、しかも33歳の若造をいきなり一部上場企業の人事総務部長にしてしまう会長の腹がなかったら、今日の自分はなかっただろう。

最初から出来たから、やることになったのでは決してない。やったから、やれるようになったのだ。いずれにせよ、入社前に考えていたマネジメントの仕事をしたい、という希望に対して十分過ぎるものを得ることが出来た。

4.新たな試練
その後、会長が社長兼任を辞して、別の人が社長になった。そこから、また別の苦難が始まる。

仕事にも慣れ、いい気になっていたのかも知れない。また会長との「まずはやってみる」「常に自分の意見を主張する」というやり方がすっかり身に付いてしまっていたのだとも思う。新しい社長からは、何か始めること、行動することには 事前に詳細な準備と説明を求められた。彼のやり方以外は認められなかったし、反論は許されなかった。迂闊な僕は、いつも新社長の餌食になった。「おまえはあれも出来ていない、これも出来ていない」と事細かに抜けている部分を叱責された。そしてそんな時、必ず「おまえはあの時もダメだった、こうだった」と過去のことも常に引き合いに出された。叱責は数十分続くこともあった。それを日に何度も経験した。

自分は不器用であった。社長の意見に対して、つい持論を言い返してしまった。それは言い訳に聞こえたのだろう。火に油を注ぐようなものだった。

また、自分は打たれ弱かった。叱責を正面から受け取ってしまう僕は、電話が鳴るたびにビクッとするようになり、毛穴が開き、そして ついには首が回らなくなった。医者に行くと、明らかに神経症の傾向と言われた。見通しが全く立たないまま、留学準備をしていた時代以来の自律神経失調症だった。

このままでは、本当に病気になってしまうと思った。でも、二度と前職のような消化不良のまま、会社を辞めることはしたくなかった。それで、腹を括った。社長の良い面だけを見、すべて受け入れよう、と決心した。冷静になって考えてみると、社長の言っていることは、私とはアプローチが異なるだけで、どれも筋が通っていた。正確だったし、確かな記憶力は感服するほどだった。

呼ばれて社長室に入る前に、目を閉じて「私はこの人のことを全て受け入れる」と両手を広げ、イメージした。一旦、自分のスタイルは捨て、すべて社長のスタイルに従おうとした。そうして、秘書や長く部下をやっている営業の連中をつかまえては、社長の次の打ち手を予測し、言われる前に手を打つようにしていった。だんだん怒鳴られる回数も減り、それに伴って、神経症もよくなっていった。

半年くらい経ったころ、社長からこう言われた。「おう小杉、おまえ良くなったな!ようやく分かったな!」と。

ホッとしたし、嬉しかった。そして、同時に、「ああ もうこの会社を辞めよう」と思った。もうこれ以上ここで学ぶものはないという消化感を持ったからだ。

それからしばらくして辞意を伝えると、社長は穏やかに「そうか。」と言って、あっさりと了解された。そして、社長主催で盛大な送別会をやってもらい、温かく送り出してもらった。意外だった。なぜそこまでしてもらえるのか、その時は分からず、戸惑っていた。
 
5.もう一つの消化感
さて、これにも前回同様に 後日談がある。退職して、5年ほど経ったある日、OBOG会があった。久しぶりに当時の社長とも顔を合わせることになる。社長は会長が再び社長職を兼任することになったため、1年で役職を辞して、別の会社の社長をされた後、悠々自適の生活を送られていた。

酔いが回ってきた頃、一人の人間が私に絡んできた。採用した私が、彼が入社したときには退社していたことを根にもっていたらしい。かなり酔っぱらい「こいつは ひでー奴だ。」などと大声を出し始め、場の雰囲気が悪くなりかけた。その時、ある人が気色ばんで割り込んできた。

「おまえは、何を見当違いなことを言っているんだ!小杉は、あのとき本当に大変だったんだぞ!おまえなんかに何が分かる!」

それが、元社長だった。

私は、我が耳を疑った。この人にこんなに庇ってもらうなんて思ってもみなかったからだ。

そして、分かったのだ。この人は自分を鍛えようとしてくれていたのだ、と。思わず目頭が熱くなり、涙がこぼれた。ああ、やっぱり逃げずに正面から飛び込んでよかった!と、心から思った。

また、一つ過去のことが消化された瞬間だった。


本稿は、「29歳はキャリアの転機」(ダイヤモンド社)をベースに必要十分な加筆、修正、削除を行ったものです