【赤池】早速ですがまずは加茂さんのこれまでのキャリアを読者の皆さんにご紹介したいと思います。社会人の第一歩は電通のアカウント担当だったそうですね。
【加茂】電通は文系出身者が多い会社です。外資系コンピュータメーカーと密なコミュニケーションを取るなら、理系の素養がある理系出身の人間に任せたほうがよかろうという判断があったのでしょう。学部で情報科学を専攻していた私に白羽の矢が立ちました。ちょうどインテルやマイクロソフト、アップルが続々と日本に進出し、活動領域を広げていたタイミングでしたから非常に面白かったですよ。
【赤池】日本のIT黎明期のど真ん中にいらしたんですね。その後、アメリカの大学院にいかれました。当時のアメリカはどのような状況だったのですか?
【加茂】いまのインターネット産業の基盤をつくったような人たち、たとえば、ウェブブラウザのネットスケープナビゲーターで名を成したマーク・アンドリーセンや、ペイパルを創業したピーター・ティール、アマゾンを創業したジェフ・ベゾスなどが世に出だした頃でした。
【赤池】すごいタイミングに居合わせていらしたんですね。
【加茂】当時はまさにインターネットブーム真っ只中。大学院を出て電通に戻ってから、電通USA内にデジタルラボを設立してシリコンバレーで活動しはじめたのですが、年下の起業家たちの活躍はまぶしいほどでしたね。私自身も感化され、セコイア・キャピタルの出資で、インターネット広告のトラッキングビジネスで起業することにしました。
【赤池】セコイア・キャピタルですか。グーグルを上場させたことでも知られている著名なベンチャーキャピタルですね。
【加茂】グーグルの成長を後押ししたマイケル・モリッツや、リンクトインを育てたマーク・クワミ、先ほど挙げたマーク・アンドリーセンにも出資してもらったのですが、残念ながら創業直後にドットコムバブルが終焉。数年後、事業を売却し日本に戻ることになりました。
【赤池】日本に戻られてからはどうされたのでしょうか?
【加茂】知人に声を掛けられ、1年間だけエンターテインメント企業の事業再生に携わった後、当時のPwCコンサルティングの戦略部門に入りコンサルタントとして活動していました。
【赤池】加茂さんは、いつごろからCDO(チーフ・デジタル/データ・オフィサー)に着目されたのですか。
【加茂】PwCコンサルティング時代に「CMO」という役職が増えていると聞き、情報収集と研究を兼ねて社内プロジェクトを立ち上げたのが最初です。その後、PwCコンサルティングを辞め、CMO(チーフ・マーケティング・オフィサー)にフォーカスしたビジネスで独立・起業しました。数年活動を続けた後、日本で「CDO」の需要が高まると判断し、世界各国でCDOコミュニティを展開するCDO Clubの日本の窓口として2017年にCDO Club Japanを立ち上げました。
【赤池】CDO Club Japan設立当時の状況を教えてください。
【加茂】私がCDO Club Japanの設立を本部に打診した2016年当時は、まだ主要な日本企業の中でCDOの肩書きを持つ人はいなかったと思います。本部のCDOから「日本にはCDOが存在しないのに、いま立ち上げる必要があるか?」と訝しがられるほど、寒々しい状況でした。それからまもなく、外資系企業の日本支社や先進的な大手企業の中にぽつぽつとCDOが生まれはじめ、1年越しの交渉でようやく設立できたというわけです。
【赤池】CDOの定義は企業によってもさまざまです。改めて加茂さんのお口からCDOの役割についてお考えをお聞かせいただけますか?
【加茂】Dには「デジタル」と「データ」の2つの意味を持っています。欧米では一般的にCDOはこの両者を元から対象としていました。一方で日本においてはDXを実現するリーダーということになると思いますが、膨大な人員を抱える大手企業では事情が異なることもあります。DXを主導する責任者としてCDTO(チーフ・デジタル・トランスフォーメーション・オフィサー)を置き、別途データの統括に責任を持つCDO(チーフ・データ・オフィサー)を立て、共同統治体制を敷くケースも見られます。一口にCDOといっても、企業規模や向き合う課題の大きさによっても負うべき責任の範疇はさまざまです。
【赤池】具体的にどのような責任を担うのでしょうか?
【加茂】CDOの活動は大きく4つのステップがあります。まずは社内プロセスの改革、
次に社外との連携を行うエコシステム連携。更にはビジネスモデルの再構築に加え、最近では脱炭素化、SDGsへの対応などがあります。上記の活動のためには、全社でDXを進めることになり、CEOの信頼、強いリーダーシップも必要です。
【赤池】なるほど。よくわかりました。ところでCDO Club Japanの現状についてもお聞かせください。現在CDO Club Japanにはどれくらいの数のCDOがいらっしゃいますか?
【加茂】現在、各業界のトップ5に入る上位企業を中心に100人を超えるCDOが在籍しています。
【赤池】かなりの規模ですね。
【加茂】確かに設立当初に比べると会員は増えました。ただビジネス界全体を見渡すと、CDOを置く企業はまだまだ少数派といえます。上場企業6,000社のうち1割程度の企業にしかCDOがいないからです。
【赤池】欧米ではどのような状況なのですか?
【加茂】全体でおよそ7割の企業にCDOがいるといわれています。それに比べると日本はまだまだ。とはいえここにきて、少しずつ風向きが変わりはじめたのを感じます。
【赤池】といいますと?
【加茂】コロナ禍の影響です。テレワークの普及や業態の変更が迫られる企業が増えた結果、世間一般にもDXへの関心が高まり、CDO Club Japanへの入会希望者も増えはじめました。いまは面接待ちの状況です。
【赤池】2021年にデジタル庁が新設されるなど、新型コロナウイルス対策を契機に政府もデジタル施策に本腰を入れはじめたように見えます。
【加茂】そうですね。CIO(チーフ・インフォメーション・オフィサー)が、社内の情報管理や基幹業務システムの運用を担当する「守りの要」なら、CDOはデジタルテクノロジーとデータを使って企業全体を変革する「攻めの要」です。両者は本来ITを真ん中に挟んだ双子の関係にあります。これまではCIOとCDOの役割がごっちゃにされがちでしたが、新型コロナウイルスの蔓延という一種の「外圧」によって、CDOの重要性が広く認識されるようになったのは、コロナ禍がもたらした数少ない「怪我の功名」といえるかも知れません。
【赤池】加茂さんの目からご覧になって、いまの日本企業のDXはどの段階にあると思われますか?
【加茂】CDOの普及度合いからも推察できる通り、まだまだ不十分という感触を持っています。データの扱い1つとっても、必要なデータが取れていないことも多いですし、部門間でデータがサイロ化され、共有ができていないことも珍しくありません。全社挙げてのDXというよりは、部分最適に終始したデジタイゼーション、デジタライゼーションに留まるケースも見かけます。
【赤池】欧米企業に比べて日本企業のDXが遅れているのはなぜだと思われますか?
【加茂】欧米企業が進んでいるのは、株主などステークホルダーから受ける変革を促す圧力が強いこと、もう1つが企業文化としてトップダウンで物事が決まりやすい体制になっていることが大きな要因でしょう。もう1つ、欧米では以前から社内に技術者を抱え、システム開発を手の内化してきた事業会社が多く、デジタルやデータ活用への理解力が高いことも関係していると思います。
【赤池】日本では「餅は餅屋」の観点から、自社のシステム子会社を介してシステムベンダーに丸投げしているケースが多いですよね。
【加茂】そうですね。社会が定常的で変化が乏しければ、丸投げでもよかったのかも知れません。しかしいまは変革の時。ゲームのルールやプレイヤーの顔ぶれもどんどん変わっていきます。市場の変化に素早く対応しようにも、丸投げしていてはスピーディーな変化は望めません。ここに日本でDXが遅々として進まない大きな問題があると思います。自社内に開発リソースを抱えていることは、決してリスクや無駄ではなく、むしろ大きなアドバンテージといえる時代になったわけです。
【赤池】さらに昨今は、製造業を中心にゼロエミッションやグリーン対策も急務ですね。
【加茂】その意味でもデジタルテクノロジーとデータを活用したデータドリブンな企業経営、ビジネス戦略の必要性は高まっているといえます。まずは経営陣が旧態依然とした組織体制やビジネススタイルを刷新する覚悟を決めること、そう一旦腹を決めたからには、ITとビジネスに精通したCDOを専任し支援を惜しまないことが、変革の第一歩になるでしょう。
【赤池】多くの企業が悩まれていると思いますが、加茂さんは、どのようなプロセスでDXに取り組むべきだとお考えですか?
【加茂】実務的な面でいうと、外部から実績のある人物をCDOに招聘したら、その下に「DX推進室」を作り、最低限PoC(概念検証)ができる機能を持たせるのが定石です。チームメンバーの核となるのは、データサイエンティスト、データエンジニア、セキュリティエンジニアなど、デジタル系のバックグラウンドを持つメンバーと、テクノロジーと経営のブリッジ役を担い、DX戦略のロードマップを描けるコンサルタントです。その後、各事業部からビジネスや業務に精通したメンバーを募り、徐々に規模を大きくしていくというのが1つの成功パターンになっています。
【赤池】CDOについてはいかがですか? どのような素養が必要でしょうか?
【加茂】CDOはメンバーほど実務に長けている必要はありませんが、何らかの変革プロジェクトをリードした経験は必要でしょう。IT全般の知識や人脈、企業パートナーとの連携やリクルーティングのために社内外への発信力も必要でしょう。もちろん経営者からの信任を得るのも大切です。
【赤池】デジタル系の人材だけではなく、事業部からも人を募ることも大切なポイントなのですね。
【加茂】事業部から人を募るのは、事業部の歴史的経緯に分け入って解きほぐす必要があるからです。DXは現場に根づいてはじめて機能するもの。理想論を振りかざすだけで動くほど、現場の業務は単純ではありません。
【赤池】DXというと、大型ディスプレイに映し出されたデータやグラフを見て、新しい戦略を考えるような「キレイ」で「カッコいい」イメージがありますが、そこまで辿り着くには、幾多の困難を乗り越えなければならないわけですね。
【加茂】すべてお膳立てが揃ってから分析したり、企画を考えたりするわけではありませんからね。既存事業のトランスフォーメーションや新規事業の立ち上げに挑む前に、現状把握と「地ならし」が欠かせません。むしろこちらのほうがメインの仕事といってもいいくらいです。
【赤池】たとえばどのような困難が待ち受けているのでしょう?
【加茂】あるはずのデータがない、データはあっても欠損している、本当に必要なデータなのか判断がつかないという状況は、日本のあちこちで起こっています。こうした現実をつぶさに把握し、どうやって新たな環境を築いていくべきかを考え、周囲を巻き込みながら実現していくのがCDOの役割であり、DX推進室の使命です。現場の実情、経営の意向やビジョンを踏まえての活動になるので、息の長い取り組みになるのを覚悟するべきでしょう。
【赤池】日本企業の99.7%は中堅・中小企業です。日本全国にDXの恩恵を届けるには何が一番必要だと思われますか?
【加茂】DXの必要性を経営者自身が理解することが第一ですが、実務を担う人材を集められるかが大きなネックになるでしょう。たとえ変革したい問題が見えていても、動かせる人材がいなければ、事態を打開することはできません。システム周りの技術やノウハウが外注先にガッチリと握られてしまい、身動きが取れない中小企業経営者も多いと聞きます。
【赤池】大企業同様、中堅・中小企業も安穏としていられませんね。
【加茂】そう思います。長期的には教育システムも見直しが迫られるでしょうね。日本はまだDX人材を輩出する仕組みが欧米に比べて貧弱で、理系学生も減少傾向です。数少ない理系学生もコンピュータサイエンスよりは工学系の比重が高く、多くはモノづくり志向。変えるべき点を挙げればキリがありません。
【赤池】日本をいち早くDX先進国にするための有効な手立てはありますか?
【加茂】短期的には、外国人も含め、社会人の中から素養のある人材を見つけ出し、キャリアの選択肢に加えていただく努力も必要になるでしょうね。そういう意味では、人材エージェントであるキャリアインキュベーションの皆さんにはとても期待しています。
【赤池】ありがとうございます。現状、当社を訪れる候補者の方見ていると、とくに技術系のバックグラウンドをお持ちの方の場合、実際のビジネスや事業に対する興味を深めるよりも、その道を極める志向を持つ方が多いように思います。そのため、本来なら、CDOやCDO推進室のメンバーになってもおかしくない方の多くが、戦略コンサルタントやDXコンサルタントを志望されることが多い状況です。
【加茂】なるほど。本来、事業会社の中でDXに携わることに意義があり、今後の市場性を考えると有望なキャリアだと思うのですが、まだまだ認知が薄いのでしょうね。われわれCDO Club Japanとしても、成功事例を世に知らしめたり、実績を挙げた"ヒーロー"にスポットライトを当てたりするなどして、CDOやCDOのもとで実務に携わるメンバーのステータスを高めていく必要性を感じます。
【赤池】加茂さんの弊社顧問へのご就任を機に、われわれとしてもCDOを1つのゴールとしたキャリアプランニングの有効性を積極的に提案していきたいと思っています。最後に加茂さん個人として、今後やっていきたいことや抱負をお聞かせいただけますか?
【加茂】すでにCDO Club Japanに参加してくださっているCDOの皆さんの協力を得ながら、情報発信を強化し、まずはCDOの数を増やしていきたいと思っています。これと並行して注力したいのが、成功事例や失敗事例の共有を通じ、DXのスピード向上と質を高めていく活動です。
【赤池】デジタル社会の実現には多くの課題があるわけですが、加茂さんがとりわけ大切にすべき点は何だと思われますか?
【加茂】デジタルテクノロジーやデータは、これからの社会を支えるインフラに過ぎません。このインフラの上に、どのような社会を築くかを決めるのは人間です。テクノロジーもデータも社会を豊かにし、人を幸せにするために使うべきものであって、DXを人員削減やコスト削減の道具と短絡的に捉えるのは拙速に過ぎます。哲学なき効率化は、社会に不幸をもたらすばかりだからです。今後は歴史や思想、科学や芸術など、人間を人間たらしめる教養の重要性がますます高まっていくでしょうし、そうあるべきだと思います。
【赤池】デジタル時代にこそ人間の内面性が問われるというのは、考えさせられるお言葉です。
【加茂】決して容易な道のりでないのは確かです。しかしアグレッシブで人格的にも優れたリーダーが日本にも増えつつあります。彼ら、彼女たちのこれからの活躍には大いに期待を寄せています。
【赤池】われわれも、せっかく加茂さんという顧問を得たのですから、少しでも社会のお役に立てるよう、人材の啓蒙と獲得に尽力します。ぜひともお力添えをお願いいたします。
【加茂】そうですね。いい関係が築けるようお互い知恵を絞っていきましょう。
【赤池】本日は長時間にわたりありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。
【加茂】こちらこそよろしくお願いします。
]]>NTTコミュニケーションズのデザインスタジオ「KOEL」でHead of Experience Designという役職に就いています。主に部門全体の成果物に対するクオリティを担保する役割を担っています。
デザインリサーチャーやUXデザイナーの育成を手掛けながら、同時に自分もプロジェクトの一員として加わることも多いです。最近ではビジョンデザインのプロジェクトを手掛けることが多いですね。
ビジョンデザインとは、10年後、20年後の社会のあり方を描き、そこから社会で生まれるニーズを仮説立て、ソリューションを構想し、その社会実装を目指すものです。とても大人しくて控えめな子供だったと思います。
周りの人をじっくり観察するようなタイプで、周りの人や景色をジロジロ見てばかりいました。
思うがまま知らないところへ行くのもすごく好きでした。通学途中でわざと知らない小径に入っていって、自分だけの新しい通学路を開拓することを楽しんだりしていました。当時、私は小学校へ行くのにバス通学していたんですが、知らない街をみてみたい気持ちが強くて、乗ったことのない路線のバスの終点まで行って引き返してくるというようなことをしていました。
絵もよく描いていました。
両親ともにグラフィックデザイナーだったこともあって、家の中に画材が多かったし、絵を書いている時はひとりで静かにできたので、親が仕事中などにも、側で絵を書いていることが多かった記憶です。
割と几帳面なところがあって、白いところがあったら「すごく嫌だな」と思ってクレヨンでもしっかり色をつけることにこだわったり、はみださないように細かく絵付けをするタイプでした。
高校1年生のときに美大への適合性みたいなのを知りたくて、美大受験の予備校の夏期講習へ通いました。受験の実態を見たい気がしていたのもあり、基礎コースなどではなく、高校3年生や浪人生に混ざって、受験コースを受講してみたのですが、それが楽しかった。丸一日の実習だったのに、あっという間に時間が経った気がするほど夢中になれたので、向いているのかなと思いました。
おかげさまで無事に美大に入れたものの、美大受験がけっこう壮絶だったので、大学ではのんびり羽根を伸ばしていたような気がします(笑)。
その頃授業で出会ったのが、コンピューターの世界でした。それまでのグラフィックデザインは想像力を使って、絵で描いたり、印刷の指示書をつくらなければならなかったりと、仕上がりイメージを頭の中で詳細に描くスキルが必須とされていたと思うのですが、パソコンがあれば印刷前にしっかりプレビューできる。グラフィックデザインのプロセスが大きく変化していた時期だったと思います。
そんな大学2年生のとき授業で出会ったのが「プログラミング実習」でした。自分も実際にコンピューターに触ってみて、パソコン上で動く絵を描いたり、インタラクティブなグラフィックをつくってみたりしました。そのときに、これまでのイメージの作り方とは全く違った、もっと動的な描き方に出会って、「コンピューターを使ったデザインってこういうことか......!」となんとなく腑に落ちたのです。
コンピューターは静止画の世界を、デジタル上に置き換えるものじゃない。「新しい道具を使って、新しい表現ができるものなんだ」ということがわかりました。昔から雑誌にときめきを感じていたんですよね。実家で片付けをしていたりすると、古い雑誌が出てきたりするじゃないですか。就職活動のちょっと前に、家で『Olive』という雑誌の創刊号を見つけたことがありました。
そのときのキャッチコピーの言い回しやモデルが身にまとっているファッション、そして広告も含めて、当時時々読んでいた「私の知っている『Olive』」の世界観とは全然違って。
「この時代って、こういう感じだったんだ!」と衝撃を受けました。そのとき雑誌って、ある意味「時代をキャプチャーするタイムカプセル」みたいで面白いなと思ったのです。
それに当時はまだUXデザインという概念がなかったので、自分的にピンとくるデザイン領域がなかった気がします。就職氷河期のど真ん中でもありましたし、もともと好きだったエディトリアルデザインの道へ進もうと、雑誌から教科書まで、幅の広いエディトリアルデザインに関われそうな、株式会社アレフ・ゼロ(現・株式会社コンセント)に入社しました。
入社時は『日経PC21』、その後は『anan』などのエディトリアルデザインを手掛けていました。日本の雑誌ならではの細かい情報を、いかに見やすくページに納めるのかを、週刊誌というスピード感の中で試行錯誤する、厳しい現場だったと思います。それでも、電車に乗ると隣に座っている人が自分の作ったページを読んでいるところに遭遇したり、どこのコンビニにも自分が関わった本が並んでいたり、自分のデザインしたページがテレビに映ったりするようなこともありました。
このとき、自分の手掛けた仕事が社会とつながっているという実感を持つことができて、手触り感のあるインパクトを感じられたのは、かけがえのない経験だったと思います。デザインの領域の中でも、今やっているデザインリサーチやビジョンデザイン的なことをやるようになった最初の大きなきっかけは、ノキアのインハウスデザインの部署に入ったことだったと思います。ノキアはデザインリサーチの領域で前衛的だったし、きっちりと行動を観察してデザインの提案をする組織で、尊敬する先輩も、アイデア豊富な同僚も多くて、とても刺激的な職場でした。
その文化の中でインタラクションデザイナーとして働きながら、幅の広いUX・UIデザインの文脈での、自分の強みみたいなものを発見することができたと思います。チームで仕事をしていく中で、自分が力を発揮できる役割や、成果物のクオリティーが上げられるタスクが見えてきた部分もありました。
自分的には、デザインリサーチからのコンセプト創出の部分と、ストーリーテリングに強みを見出して、その後のキャリアでもそこを軸にしてきたと思います。
その上に、デザインリサーチに出会う前に培ったビジュアル・コニュニケーションや、エディトリアル・デザインで学んだ情報整理術を活用して、自分らしい領域を探してきた気がしています。絵をきちんと描く、道具を適切に使うといった実技的なスキル全般は美大受験で培ったと思います。デッサンのノウハウや、きちんと色をつけるといったような、基礎的な部分です。
もっと今の仕事につながる「まずやってみる」というような実験的な制作は、イギリスのロンドンにある美術系大学院大学のロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)に留学して身についたと思っています。
インタラクション・デザインというコースに入学し、「インタラクションの正体を学びとるぞ!」と思っていたのですが、実際イギリスへ行ってみると、そもそも学校のあり方からしてまったく違っていて、待っているだけでは何も教えてくれないですし、「これをやりなさい」という課題もありませんでした。その代わり、やりたいことがあれば教えてくれますし、専門家につないでくれたりします。そこで、わからないことは知見者に聞いてみる姿勢が身に付いて、それが今のデザインリサーチのスキルの基盤になっていると思います。知りたいことを知ってそうな人を探すこと、知りたいことを知るための質問の仕方など、いつも考えていました。
その後の仕事の中で、色々な関係者を説得しなければならない、プロダクトのデザインに携わることで、制作物に対して、理由付けや付随するストーリーを考え、しっかり「売り」となるポイントを打ち出すことも習得できました。
なので、専門的スキルは、人生すべての経験の積み重ねみたいなものだと思ってます。デザイナーとしての経験がついてきた頃から、プロジェクトをリードするようになったときだと思います。プロジェクト全体に対して、自分が方向性を示して、チームみんなで何かを成し遂げなきゃならない。わからないことに直面しても、なんとかするしかない。それがプロジェクトリードです。
そのときに活きたのは、RCA時代に培った「まずやってみる」マインドや、見せ方・伝え方へのこだわりでした。プレゼン相手に合わせて説明を変えたり、しっかり理由付けをストーリー仕立てで伝えたりする。その経験のおかげで、マネジメントをすることになったときも本当に助けられました。
また、マネジメントに取り組もうとして、人間関係でうまくいかなかったこともあります。そのときは人生の先輩であり、デザイナーとしての先輩である父に相談することもありました。
意見が食い違ったとき、相手を変えようとするのも違うし、逆に自分のクリエイティビティを曲げて相手に寄せようとしすぎると自分が摩耗してしまう。一つのプロジェクトを成し遂げるとき、自分という人間がみんなを完璧に「動かす」なんてできません。
今では「プロジェクトのゴールを描き、そのクオリティを確実に担保すること」を見据えてプロジェクトをマネジメントするようにしています。イギリスのRCAを卒業したときですね。日本に帰国するかどうするかを考えたタイミングです。
イギリスのほうがデザインについての視野が広い気がしたので、ロンドンで働きたいと思いました。体験のデザインもデザインリサーチも活発化してきた時期で、日本ではまだそうした動きが出てきていませんでした。私は職人的に美しいものを作り込むというよりも、デザインの力を使って意味のあるモノを作りたかったし、戦略のような大枠から考えたかった。
でも海外で就職するってすごく大変で、学生ビザの残りでイギリスに滞在できるカウントダウンが始まってしまいました。
現地の会社からすると、デザインの大学院を出たばかりで何の実績もなく、しかも英語はネイティブほど話せるわけでもない、日本から来た私を採用する明確な理由が見当たらない。留学して現地で働く人はそれほど多くないですし、ロールモデルもいなかった。就職活動はとても大変で苦戦しました。
そのとき「私の売りってなんだろう?」とすごく考えましたね。当時、フランスで働いていた友人に言われたのは、「海外で仕事を探すには、人より優れているところが3つ必要だ」ということでした。
そこで必死に考え抜いた結果、
1.インタラクションデザイン(エクスペリエンスデザイン)
2.これまでのグラフィックデザインの経験
3.日本語を話せること
を強みと捉え、それをわかりやすく伝える工夫を重ねていきました。
期限が迫る中、必死に自分の"売り"を探したその頃は「他の人とは違う、私の強みはなんだろう」とアピールポイントに向き合えた貴重な時期だったと思います。キャリア選択において、コンセプトを構想するようなデザインコンサルタント的な仕事と、プロダクトを世の中に出していく事業会社での仕事、どちらの仕事もし続けたいという気持ちをあきらめきれなくて、両方を行き来するデザインライフを送ってきました。
SONYで『PlayStation4』のシステムUIをつくるプロジェクトを手掛けたときは、関わる人数の多さや、影響力の大きさから、大変さを感じたことも多かったです。
はじめてエンジニアと正面からコミュニケーションし、「世の中にリリースするためのコミュニケーション」「実装のためのデザイン」をすることになりました。コンセプトだけで留まるだけのときとはまったく違い、私にとってストレッチとなる経験だったと思います。
その後デザインコンサルティングファームの「Method」に入った時はカルチャーショックが大きかったですね。初めてのコンサルティングファームで、プロジェクトの期間も短かくて。毎回まったく異なる業界に対して、顧客が驚くような提案をものすごいスピードで行わなければならないのは、大きな挑戦でした。
毎回荒波の中を進むような感覚なんですが、そのプロセスを繰り返すうちに成果が出てくるようになって「最後はちゃんとうまくできる」と自信を持てるようになりました。そうしているうちに、やり方のパターンが増えていったような気がします。様々なプロジェクトを一緒に走りきってくれた同僚や、右も左もわからなかったときに学びにつきあってくれたRCAの同級生です。みんなユニークな視点を持っている方たちばかりで、彼らのような視点を忘れてはいけないと思っています。
RCAへ行ってよかったなと思うのは、多様な視点でものごとを捉える習慣がついたことです。アングルを変えてものごとを見ることで、新しくわかることがあります。いつも心がけているのは、RCAの同級生と久しぶりに話したときに「つまんなくなったな!」なんて思われたくないなということ。日々、いろんな視点を持っていたいですね。
アーティストやデザイナーとしては、一つの表現だけに固執しないで、常に作風を変えて新しい表現の境地を開拓している方が好きです。やっぱり、新しいことに挑戦するのはエネルギーが必要だし、繰り返しの快適さに身を委ねないストイックさに魅力を感じます。「やってみる!」
常にやってみることを心がけています。
やらない理由っていくらでも捻出できると思うんですね。だけど、そうじゃなくてまずやってみる。小学生のとき知らないバスに乗って終点まで行ったり、とにかく外国に住みたいとイギリスのRCAへ留学してみたり。それもすべて「やってみよう!」と思ったからです。
やらないと一生後悔しちゃいそうなんですよね。年老いたときに「一度は外国に住んでみたかったなぁ」なんて思っちゃいそうで。
嫌だったらやめればいい!くらいの気持ちで、とりあえずやってみるようにしています。
例えば私の場合、アメリカでの暮らしは合っていなくて、2年で辞めて、イギリスに戻ったりもしました。
「とにかくやってみる」というステップを乗り超えると、できることがデザインの成果物の幅にも広がるし、さらに他の選択肢へも広がる。今では、生活や仕事のフィールドも、世界にまで広がった気分です。
やってみることを重ねていけば、例えば「来月からシンガポールで仕事をしてくれない?」なんて言われてもすぐに飛んでいける。それって、自分のキャリアが世界中のジョブマーケットまで広がることになると思うのです。人生の可能性が広がった気がして楽しいです。「これ!」というものはありません。
その根底には、一つのものだけに影響を受けたくないという思いがあります。多角的な視点を持って、いつも多様なアングルでものごとを見ていたい。何かをバイブルとして自分の軸にすることはないです。日常生活を幸せにするデザインを、これからも手掛けていきたいですね。
「当たり前の日を幸せにする」というのことを自分の中では大切にしています。日常のちょっとした幸せが続けば、本当に毎日が幸せになると思う。特別な人だけが感じる幸せではなく、街に生きるみんなの当たり前の毎日が、ちょっといいな、と思えるような仕事を続けていきたい。
「KOEL」に入ったのも、インフラという、すべての人の暮らしに関わるインクルーシブな領域です。それがより良くなったら、みんなの暮らしがちょっとでもよくなるのであれば、デザインの力で社会貢献ができるのではないかと思います。移り変わりの早い世の中なので、5年後、10年、自分がどういうスキルを持っていたいのかを考えながらキャリア形成するといいのかなと思っています。
先ほどもお伝えした通り、自分の"売り"って何だろう、といろんなタイミングで考えることがすごく大事です。
得意なことって、自分にとって当たり前のようにできちゃうことなんですよね。でもふと周りを見渡すと、他の人は苦戦していたりして。それをすごく頑張っていたわけじゃないのに、気付けばできていること。そういうことを客観的に見つけるようにして、自分の得意を見つけてみるといいんじゃないでしょうか。
どんな付加価値をつければ、自分のやりたいことを仕事にできるのかを節目節目に考えるのも良いと思います。
例えば私の場合、大晦日に毎年振り返りをしています。毎年3つの目標を立てているんですが、その目標がどれだけ達成できたか、来年はどんなことをできるようになろうか、そんなことを日々考えています。
]]>大学・大学院では寺社や日本庭園の研究をしていました。その頃、たまたまNHKのドラマ「ハゲタカ」が大ヒットしていて、企業を成長させるプロフェッショナルがいることを知り、強く憧れました。
大学院を出てからは、野村證券に入り、投資銀行業務を担うIBDで企業買収や合併をサポートする業務を経験。
その後、ドリームインキュベータ、ベイン・アンド・カンパニーとコンサルを約8年以上経験しました。ドリームインキュベータでは新規ビジネスの立ち上げ案件に多く関わり、ベイン・アンド・カンパニーでは、業界のリーディングカンパニーの経営陣に対して様々なテーマのプロジェクトに携わりました。
エンバーポイントに入社したのは、2019年11月のことです。
CSOとして基本的に2つの機能を管掌しています。
1つは経営企画で、CEOの神谷とともに全社の戦略策定・実行を担当。もう1つは人事部門で、戦略を実現するために人的リソースの振り分けや組織づくりを担当しています。
「基本的に2つの機能」と前置きをしたのは、1メンバーとして、営業部門とコンサルティング部門にも籍を置いているからです。営業に同行したり、コンペの結果に一喜一憂したりしています(笑)。
CSOに求められる専門性を語れるほど経験があるわけではないのですが。会社の状態によって必要なスキル・経験が異なることは分かっています。例えば、今はアプリ開発やシステムインフラの知見が無いことで苦しんでいますが、これは3ヶ月前には必要なかったものです。
一方、フェーズによらず共通して使えるスキルもあって、それは少しずつ掴みかけている、という段階です。
例えば、野村證券では投資銀行業務・ファイナンス、ドリームインキュベータではベンチャー支援や新規ビジネス立ち上げ、ベイン・アンド・カンパニーでは経営戦略を学びました。
こうした経歴からすれば、ファイナンス・経営・戦略が専門といえますが、実際はそのキャリアの中で、現場にどっぷり入り込んで学んできたことの方が役に立っています。
マネージメントに関しては、ベイン・アンド・カンパニーで鍛えられました。とくにマネジャーとして学んだことは無二の経験だったと感じています。
ベイン・アンド・カンパニーは、調査会社が毎年実施している、働きやすさを競う企業ランキングで上位を占める常連です。これを支えているのがマネージメント層の優秀さ。入社してそれがとてもよくわかりました。
ベイン・アンド・カンパニーのマネジャーは、いついかなるときでもメンバーや上司、顧客からの質問に即答できるよう、常に5歩先、10歩先を見越して考え尽くすことが求められます。毎週、メンバーはチームの状態や満足度を評価し、その結果が公表されるので気が抜けません。
コンサルティングの実務においても、顧客が到達すべき理想的な状況から逆算して、1年後にここまでたどり着こうと思ったら、半年後、3カ月後、1カ月後、2週間後に、顧客に何をどのように伝え、何を成すべきかを徹底して問われるので常にゴールが見えていないと務まりません。
そのためマネジャーは、メンバー以上に問われるレベルが高く、知的な意味でも体力的な意味でもタフさが要求されます。リーダーシップを磨くには最適な環境だったと感じます。ドラマ「ハゲタカ」を見て経営に携わってみたいと思った瞬間と、ベイン・アンド・カンパニーでのマネージメントを経験したことがキャリアの転機だったと思います。
コンサルティングの現場で顧客と向き合っていた当時は、とにかく死に物狂いでしたから、この経験が自分の将来にどのような形で役立つのかわかりませんでした。ドリームインキュベータの創業者である堀紘一さんと、ベイン・アンド・カンパニーのパートナーである石川さんです。
堀さんとは何度かプロジェクトをご一緒したことがありますが、本筋から一切外れない切れ味の鋭いお話しぶりが、強く印象に残っています。
経営者に嫌われてもおかしくないセリフも躊躇なく口にでき、しかも説得力がある。名経営者と対峙できる数少ないコンサルタントでした。参謀とはかくあるべしという1つの規範を見せていただき、とても勉強になりました。
創業者やCEOが目立つことが多いですが、CXOがチームとして強いかどうかは本来は重要と考えています。強いCXOが揃っていて、連携が出来ている会社はスピードが違う。今の会社でそれを実感しています。
ヒト・モノ・カネというリソースの中で、ヒトが重要な差別性になってきている。CXOはその中の代表格であり、今後はより重視されるようになると思います。
私もCXOとしてはヒヨコどころかタマゴなので、偉そうなことは言えませんが。。。
一言でいうと、極力「食わず嫌いをしない」ことです。
たとえば自分の意に沿わない仕事やタスクをアサインされたとしても、一端、気持ちを抑えてでもやってみるべきだと思います。
経験が乏しいうちは、どうしても視野が狭くなりがちで安直な判断を下しがちです。
有意義だと思って選んだ道が期待外れだったり、気が進まず歩きはじめた道の先に可能性が広がっていたりすることだって珍しくはありません。
私も「自分がこんな仕事をやる意味あるのか」と思った仕事で得た経験が、今は何よりも貴重な学びに繋がっていることも多くあります。
結局、人は何からでも、誰からでも学べますし、どのような経験も糧にすることができます。自分が進むべき方向性を見出すまでは、安易にNGを出さず挑戦してみてはどうでしょう。思いもよらなかったポジティブな発見や出会いがあるかも知れません。
大学を卒業して、株式会社第一興商へ入社しました。大学時代は電子工学部で、専門がハードウェア寄り。音楽が好きだったこともあり、カラオケで有名な第一興商を選びました。2年勤めた後は、IT企業で働いたりニートの期間があったりしながら(笑)、着うた・着メロ全盛期にテレビ局の着メロサイトを作る中で、モバイルというデバイスに出会ってのめり込んでいきました。
モバイルサービスの一番の魅力は、作ったサービスに対してユーザーからリアクションがあること。カラオケやPCメインの仕事では、サービスをリリースしても、ユーザーにどんな風に使われているのかどんな風に受けとめられているのかが見えにくかったけれど、モバイルになった途端、瞬時に売り上げや利用者数といった数値にダイレクトに反映されることが面白かったんです。
当時はモバイルのエンジニアでしたが、ベンチャー企業だったこともあり、営業も企画も担当していました。エンジニアは、自分たちでしか理解できない独特の言語を使いがちですが、僕は人と話をするのが得意だった。だから、お客さんとエンジニアをつなぐ通訳のような役割も果たしていました。自分としては特別なこととは思っていませんでしたが、"通訳が出来るエンジニア"は希少とされて、エンジニアという枠を超えたディレクターとしてキャリアを積んでいったんです。
その後、2008年9月にリーマンショックが起きるわけですが、その影響が大きくなる前、同年12月にヤフー株式会社へと転職しました。
当時は「何の仕事をしてるの?」と聞かれたら、「モバイルの仕事をしている」と答えるほど、モバイル領域全般の仕事をしていて、エンジニアという自覚もありませんでした。その後、2009年頃にスマートフォンの波がやってきて、エンジニアからプロダクトマネージャーへと立ち位置をコンバートし、とにかく新規アプリを作り続けるという展開に。
3か月に1本新しいプロダクトをリリースするという、ヤフーの中でもかなり特異なチームでした。かなり忙しかったけれど、楽しかった思い出しかないほど、好きなことだけやっていました。思いついたアイデアはなんでも形にできるような感覚すらあって、まさにハックマインドで仕事をしていたような気がします。
そうこうしている間に2012年、ヤフーの経営陣刷新に伴い、ヤフーのトップページアプリの責任者に任命されました。振り返ってみれば、ヤフーへは部下なしのリーダークラスで入社した後に本部長にまで昇進しました。冗談ではなく、あっという間に担当する領域も受け持つ部下の数も広がった感覚でしたね。
プライベートでは子供が生まれましたが、産前産後、妻の調子があまり良くなかったんです。それまではオンとオフの境もないほどに、24時間働いているようなスタイルでしたが、そうはいかなくなりました。思い存分働けない状況になった時、会社は時短勤務でもと、別の働き方を提案してくれたんですが、思い切って退職をすることに決めました。
そしてその後、KDDIへと転職。1年前にグループ会社のmedibaへ異動しCXOとして仕事をしています。
便宜上UXデザイナーと名乗ってはいるものの、会社の全ての領域におけるファシリテーションが、自分の仕事だと感じています。僕自身が意思決定をすることはもちろんありますが、意思決定をできる人を増やしていくこと。具体的には、人事システムをはじめとした組織人事全体の企画設計もそう、中期経営計画立案のための合宿企画とそのファシリテーションもそうです。
今期からは、全社の重点KPIに「ユーザー中心目標」という項目を設定し、ユーザーの体験をより良いものにしていく。そのために、どういう行動が賞賛されるものか・されないものかまで明らかにして、組織として個人として行動がしやすくなるようにデザインをしています。KDDIはグループ全体で社員が3万5千名ほどいますが、medibaの東京オフィスは200数十名規模。彼ら彼女らが、ユーザー中心の思考と行動ができるようになり、KDDI全体の中でものづくりの仕事に欠かせない人材となってくれることを目指しています。ユーザーエクスペリエンスやUXという単語は使っていないし意識もしていませんでしたが、ポータルサイトのアプリ責任者を任されて以降の、ヤフーでの経験だと思います。「ユーザーを知りたい」「ユーザーを知らなければ商品・サービスは作れない」という感覚で、ユーザーへインタビューを行い、現状のサービスを改善するなど、まさにユーザー中心でサービスを作っていきました。
ユーザーは、ヤフーという会社やブランドが好きでポータルサイトを使っているわけではありません。もちろん、ヤフーブランドを愛する人も一定量いるとは思いますが、みんながそうとは言えないという危機感を強く持っていたからこその考えでした。もしも逆に、ヤフーというブランドを信頼しすぎていたり、すごい編集者がいるから問題ないと思い込んでいたりしたら、対応は違ったと思います。でも、極端な表現かもしれませんが、ユーザーを見ているからこそ、「ただそこにあったから」「最初に利用したポータルサイトがヤフーだったから」、利用されているだけなんだとわかりました。ここでの経験により、一層ユーザー中心の考え方を持つようになったと思います。具体的にどこで獲得したということでもなく、挑戦をして失敗もしながらついてきたスキルのような気がしています。マネージメントとしては、本人の意欲や能力に頼るだけではなく、仕組みで支えることを徹底しています。
現在medibaでは新規事業開発も担当しているので、新規事業を作って伸ばすやり方をハンズオンで実践しています。最初は誰もみんな、何をどうしていいかわからないもの。でも実際に、ブレイクスルーする"アハ体験"をすることが大切なんです。新規事業と言われると身構えて、リリースするよりも机上で考える時間が多いことが大半ですが、まずはリリースしてみてユーザーの反応を見て調整するというサイクルを覚える。そうすれば、良い反応があれば嬉しいしそうでなければ悩むという、健全なネクストアクションにつながっていきます。そして当たり前のことですが、その喜びや悩みの中心には常に、ユーザー視点がある。今少しずつ、そのあり方が根付き始めている感覚です。
多くの会社で、打席に立たせることもなく打率を上げろというメッセージが横行しているようにも見えますが、それは無理な話です。繰り返し実践しないと、型なんて身につくはずがない。medibaでは、新規事業を創出するためにも、今は打席に立つ数を増やそうとしています。具体的には、ユーザー調査を徹底した上で新商品・サービスをリリースすること。今はそれ自体を目標に置いていて、打率は求めていません。とは言え、失敗を許容しているわけでもないんです。ただ、打席に立たなければ成長はしないと思っているので、できるだけ打席に立つ経験を増やすことから始めようとしているだけ。打席に立つことがきちんと型化されて、みんなの当たり前になったら、プロセスを目標にすることはやめて、成果を見ていくつもりです。二点あると思っています。一点目はヤフーで、屋台骨であるポータルサイトのアプリ責任者に任命されて以降の経験です。ヤフー入社後は、新規アプリ開発を行っていたのですが、2012年に経営陣が刷新されたタイミングで、ポータルサイトのアプリ責任者へと声がかかりました。アプリの新規開発をしていた頃から当然、ユーザーインタビューやユーザービリティテストは行っていましたが、ポータルサイトにかかわることが決まった際、あまりにも対象が広範囲すぎて、一体ユーザーが誰なのかがイメージが持てなかったんです。そこで、まずユーザーインタビューを実施して、改善することからはじめたところ、一気に数字が伸びました。そこで学んだことは、自分が想像する範囲やレベルは、思い込みにすぎないということでした。
ちなみに、日本においては、デイリーアクティブユーザーが200万人を超えてくると、電車などで自社の商品・サービスの利用者に出会えると言われています。僕自身、もはや癖になってしまっているのですが、電車での移動中などで、自社サービスを利用いただいているユーザーさんを、ついつい目で追ってしまいます(笑)。ユーザーさんが日常生活の中でどのように、自社サービスを取り入れてくれているのか。その振る舞いの中から、課題を発見することこそが、本当の意味での課題解決につながるという思いが根底にあるからです。
二点目は2011年の3月11日、東日本大震災の経験です。ヤフーのポータルサイトで災害状況を伝えた経験は、まさに全人口がユーザーになったと感じる瞬間でした。これまでは、数十万・数百万人のユーザーを対象として物事を見ていましたが、全人口が対象ユーザーだと思うようになったんです。命に関わる情報を扱っているという意味で、インターネット企業としての責務も感じるようになったことで、視野が広がり視座が上がったと思います。
medibaへ移った後、記録的な猛暑に襲われた2018年の出来事ですが、熱中症で子供が一人亡くなったという報せを受けてすぐに、警笛を鳴らすべきだと、au Webポータルに熱中症情報を載せました。熱中症についてテレビニュースが大きく報じる前のことで、モバイルやインターネット企業だからこその迅速さで、対応できた出来事のひとつではないかと思っています。ユーザー中心の考え方を持つことで、自分の価値観だけで物事は測れないことを知り、アウトプットしてくれる人が増えたらと願っています。そのために、自分が貢献できることは何でもしたいと思っています。
]]>小さい頃から絵を書くことや工作は好きでしたが、将来の仕事については特に具体的なイメージはありませんでした。大学進学のタイミングでも、将来のイメージはぼんやりしたまま慶應義塾大学の理工学部に推薦入試で進学しました。学科は漠然とモノづくりに関わる仕事をしたいなと思って機械工学科を選択。しかし、大学に通ってみて、機械工学科で対象とするモノづくりと当時私が考えていたモノづくりとが違うことに初めて気づきます。私が思い描いていたモノづくりは、自分で何か課題を見つけてそれを解決するようなアイデアをカタチにすることであり、決められた仕様や性能を前提に設計することではありませんでした。
商品開発プロセスは一般的に上流工程と下流工程があり、エンジニアは主に下流工程の設計を担っていること、上流工程においてカタチを定義するインダストリアルデザイナーという職業があることを、大学入学後に知りました。当時インダストリアルデザイナーになるためには、美大や専門のデザイン学科を卒業するのが一般的でしたので、一時は美大を再受験することも考えました。
そんな折、慶應大学の大学院に日産のデザイン部門出身の教授がいることを知りました。迷うことなくその教授の研究室に入り、インダストリアルデザイナーを志しました。大学院では設計理論の研究を行いながら、デザイン専門学校に通いインダストリアルデザインの基礎を学びました。しかし、いざデザイナーとして就職先を探してみるとそう簡単にはいきませんでした。
2000年当時は工学出身者がインダストリアルデザイナーを志望すること自体が稀だったこともあり、大手企業において工学出身者はそもそもデザイナー採用の対象にもなりませんでした。複数の大手メーカーの採用窓口に問い合わせましたが、なかなか良い返事を頂けませんでした。最終的には大学院の教授の援助により、なんとか東芝のデザイン部門の採用試験を受けることができました。美大やデザイン学科出身者に混じって運良く採用試験をパスすることができたというのが社会人スタートまでの経緯です。
私が入社した当時は、日系メーカーはグローバル市場においてもまだまだ競争力があり、最先端のプロダクトを開発し世界市場に提供していました。東芝はデジタル製品、白物家電、医療機器、インフラシステム等、幅広い分野でデザインを行うことができるインダストリアルデザイナーにとって大変やりがいのある魅力的な環境でした。若手デザイナーでも様々な製品デザインを経験できる仕組みや文化があり、映像機器から家電まで多様な製品開発においてコンセプト提案から量産開発まで幅広くデザイン経験を積むことができました。また、関わった製品では、国内外で多くのデザイン賞を受賞することもできました。
その後、北米にある東芝のグループ会社へデザインディレクターとして赴任しました。配属は映像事業のマーケティング部門。当時は韓国メーカーがデザインや機能面でも市場をリードし始めていた時期。日本市場とは異なりデザインに対する期待や責任はとても大きく、業務も広範囲を任されました。現地のマーケティング責任者のもとで、リサーチやデザイン提案だけでなく、現地の営業、調達、製造、品質管理、リスク管理部門との調整や、欧州やアジアといったデザイン担当者との連携を行なっていました。
北米での駐在生活やビジネス経験は、自分の視座を大きく上げたとともに今後のキャリアを見直す一つの転機になったと思います。2015年に映像事業は北米市場から撤退することになったのですが、海外での生活やデザイン業務は、日本とは異なる文化を肌で感じて理解する貴重な経験であり、価値観の形成にも大きく影響を与えたと思っています。
日本に戻ってからは、本社のコーポレートブランディングやデザイン組織の戦略立案、デザイナーの採用や育成などに携わり、経営的な視点で業務を行う貴重な機会を頂きました。一方で、ビジネストレンドがモノからデジタルサービスへと大きく変化するなか、次のキャリアステップとしてデジタルサービスのデザインディレクションを経験できるような機会を社内で模索しましていました。
しかし、残念ながら当時は私が希望するような選択肢は社内にはありませんでした。長年働いてきた会社を離れるのには大きな決断が必要でしたが、最終的に新たな環境で挑戦することを選択し、デジタルサービスの体験設計においてグローバルで多くの実績があるTigerspikeにUXデザイナーとして入社することに決めました。東芝を離れる際にお世話になったデザイン部門や事業部の多くの方々が新たな挑戦を応援してくれたことは本当に感謝しています。
Tigerspikeでは、コンサルティング業務を通じて、様々な業界においてインハウスデザイナーが必要とされていることを実感しました。メーカーでは大企業から中小企業までインハウスデザイナーという職種は一般的ですが、金融、保険、小売、流通、航空会社などの業界では、日本の場合、大企業であってもインハウスデザイナーの必要性がまだ認識されていない状況です。このことに強い問題意識を持つようになりました。
また、企業カルチャーを最重視するTigerspikeでは、企業における組織づくりの大切さも学びました。どうすればデザイナーをはじめとした社員の能力が最大限に発揮されるか、魅力的な企業カルチャーをつくる意義は何かを実体験として学ぶことができました。自由で働きやすい環境のなか、バックグラウンドが異なる優秀なメンバーと一緒に質の高いデザイン業務ができたことは、本当に素晴らしい経験でした。
Tigerspikeで複数のクライアント企業と一緒に仕事をしているなか、MUFGが立ち上げたJDDからデザイン責任者のポジションについて話しを頂きました。JDDで代表を務める上原(代表取締役CEO)から、「金融は目的でなく手段。既存の金融サービスの枠組みにとらわれず新たな金融体験を創りたい。」という強い想いとAI研究所の設置やエンジニアリング部門の拡大といった思い切った施策を聞いて、直感的にデザイナーが新たな価値を創出できる環境を作れると感じました。また、ソリューションをデジタルに限定せず、ハードウェアも対象としていることも、新たな体験を創り出すという観点で大きな可能性を感じました。
Tigerspikeでの仕事が充実していたので迷う部分もありましたが、非製造業におけるインハウスデザイナーの必要性という課題意識も後押しとなり、最終的にJDDでの新たなミッションに挑戦することを決断しました。まずは2018年5月からプロジェクトに関わり、2018年9月からChief Experience Officerとして新規プロジェクトや社内の体験デザインならびにデザイン組織マネジメント業務を行っています。
ミッションは大きく2つあります。1つ目は、新規事業やMUFGが有するデータを活用したAIソリューションにおけるCustomer Experience(顧客体験)の設計です。リサーチ設計から始まり、機会領域の定義、ソリューションコンセプト創出、そしてプロトタイプの開発と検証までサービス開発の上流から下流まで全体を通して関与することになります。
2つ目は、社内におけるEmployee Experience(従業員体験)の設計です。新規事業を創り出すことは口でいうほど簡単ではありません。一定の成果が出るまではしんどいことばかりと言ってもいいと思います。だからこそ、そのしんどさをポジティブな力に変換できるような組織や環境づくりが大切だと思います。個人のモチベーションやスキルだけに委ねるのではなく、組織として個人をモチベートしたり能力を引き出したりする環境を作ることが自分の役割だと思っています。試行錯誤を重ねながらではありますが、外部の専門家の力をお借りしながら、業務プロセスの改善、オフィス環境の整備、社内活動の導入を行なっています。2つあります。1つはアメリカ赴任の時です。東芝のグループ会社ではありましたが、企業文化も業務プロセスも全く違う環境のなかで、各国の事業部門、開発部門、マーケティング部門の方々と連携しながら、ビジネス全体を俯瞰してデザインディレクションを行えたことは本当に貴重な経験でした。日本とは異なる環境のもと、ビジネスに近い立場で責任を負いながらデザイナーとして成果を出せたことは、大きな自信につながってます。アメリカでの実務経験は、その後の自分の仕事に対するスタンスやデザインアプローチに大きく影響していると思います。
もう1つは社会人の時に博士課程に進学した時です。2足のわらじというかたちでしたが、やはり自分が納得できるような成果はなかなかでませんでした。結果的に6年も大学に通うことになり、周囲にかなり迷惑をかけながらなんとか学位を頂くことができました。この時の経験があるので、当面はデザイン実務に集中するようにしています。座右の銘は特にないのですが、意識していることは幾つかあります。若いときには「失敗しても必ず取り戻す」と決めて結果に執着してました。特に「手を抜くことがクセにならない」ように、やると決めたら何事にも徹底してやることを意識してました。ある程度裁量を持って仕事をできるようになった30代では、まず「失敗から学ぶこと」を意識してました。そもそも挑戦しないと失敗することもないので、今まで経験したことないことに挑戦することを大事にしていました。
つぎに、「独自の視点を持つこと」を意識していました。ビジネスとデザイン。ハードウェアデザインとデジタルデザイン。マネジメントと実務。日本文化と海外文化。異なる軸を自分のなかに併せ持つことで自分らしい観点を持てるように意識して仕事をしていました。
今は常に「問う」ことを大事にしています。今までの経験がバイアスになることはできるかぎり避けたい。今までの経験を過信しないで、可能な限りフラットな状態でデザインに取り組みたいと思ってます。まずは、今の立場で自分で納得できるような成果を出すことが直近のキャリアビジョンです。デザイン実務の観点では、デジタル化が進むなかで排除されがちなデジタルリテラシーが高くないユーザーでも、自然に使えるようなサービスの創出に積極的に取り組んで行きたいと考えてます。
「インクルーシブデザイン」のようなアプローチはサービス設計においてまだまだ一般的ではないですが、社内のデザインプロセスの一つとして定着させたいと考えてます。私が言うのもおこがましいですが、まずは目の前にある課題に対して謙虚に手を抜かずにやり切ることが大事かなと思ってます。その上で、失敗することを恐れす自分の直感を信じて挑戦してみる。デザイナーに限らず、若い方々には自分の可能性を信じてのびのびと仕事をしてほしいと思っています。
]]>私は米国のコミュニティカレッジにいる頃からネットを使って学費を稼いだりしていました。卒業をするとそのままITの世界で働き始め、日本マイクロソフトでは価値ある経験をさせてもらいました。ただ、シアトルの本社とやりとりをする機会が増えていくうちに、優秀なアメリカの同僚が皆MBAホルダーだということを知って気持ちが動き、一橋大学のビジネススクールに通うことにしたんです。
マイクロソフトでも、年齢や学歴に関係なく自由にやらせてもらいましたが、ビジネススクールではまったく異なるバックボーンの学友たちとの交流から非常に大きな刺激を受け、自分自身の将来像などを俯瞰的に見つめる良い機会になりました。MBA取得後はカタリナマーケティングやテラデータ等で、デジタル関連の業務に携わり、組織をゼロから起ち上げていくような経験をすることもできました。
2016年になると、サラ・カサノバさんがCEOに就任して、大胆な経営変革を実行していた日本マクドナルドから声をかけてもらい、足立光さん(当時CMO。現在は米国ナイアンティック社アジアパシフィック プロダクトマーケティング シニアディレクター)率いるマーケティング本部のデジタルエンゲージメント部という部門でデジタルマーケティングによる改革などをやらせてもらいました。
いわゆる事業会社で働いた経験や、そこでV字回復を成し遂げたチームの一員を務めたことは自信にもつながりましたが、大きな会社が変革を目指す場合に、そうそう簡単には効果が短期的に現れては来ない現実も、学習することになりました。
ミツカンホールディングス(以下、ミツカン)からCDOのお話をいただいた時にも、大規模な事業会社におけるデジタル変革の難しさは頭に浮かんできたのですが、お話をさせてもらう内に、考え方が変わっていきました。
ミツカンは日本人なら誰でも知っている歴史ある企業です。長い年月を生き抜いてきた会社には、どうしても保守的なイメージを持ってしまいがちですが、よく考えてみれば「常にその時代ごとの変化に適応してきた」から長続きしているのだとも言える。事実、ミツカングループのチーフオフィサー・クラスのかたがたは、40〜50代という若さ。聞けば、戦略的に少しずつ若返りを図った成果なのだということ。
米国に本社があるような企業ばかりで働いてきた私には、こうした「長期的に変革を形にしていく姿勢」が素晴らしいものだと思えたんです。今回のデジタル変革についても、大胆さを期待しつつも、きちんと地に足の着いたものにしていきたい、という経営陣の意向があるとわかったので、CDO就任のお話をお受けすることにしたんです。
私のCDO就任と同じ2018年11月に、ミツカンは「ミツカン未来ビジョン宣言」を発表しています。そこでは、10年先の未来に向けた基本理念が示されているのですが、このビジョンに則って、私が担うデジタル変革も進めていこうとしています。つまり、短期的にいくつかのデジタル関連プロジェクトを進める、というような取り組みだけではなく、ミツカングループ全社を変えていく、というスケールの大きなミッションを担わせてもらっているわけです。
営業のあり方だったり、マーケティングの手法だったり、バックオフィスの働き方だったり、社内の隅々をデジタルによって変えていくのが使命ですから、かなり大規模なロードマップが出来上がってもいます。生活者とのエンゲージメントのために、生活者を主語にした発想でデジタルマーケティングを打っていく動きもあれば、ロジスティクス領域の運送費問題解決のためにルート最適化をデジタル技術で行っていく動きなどもあり、いろいろと動き始めています。
ただし、CDO就任時に弊社の代表とも約束をしたのですが、私がまずやるべきことは「この会社のかたたちと仲良くなること」だと考えています。外から入ってきたチーフオフィサーが得意分野で何か専門性を発揮すればそれでいい、とはミツカンの経営陣も私自身も考えてはいません。一緒にこの会社をもっと良くする、もっと面白くするために私はここにいると考えています。
中にいる人たちをその気にさせるのが役割なのですから、「仲良くなる」のはとても大事な仕事。今後はデジタル変革のためのチームも編成していきますが、外部からの人間は原則として私だけ。あとはミツカンの社内から集まっていただき、一緒に変革を成功させたいと願っています。遊びに夢中だったわりに成績は良かったので、高校では進学校に行ったのですが、突然まわりがデキる子ばかりになったこともあり、成績は上から数えて300番目(笑)というようなどん底を味わいました。
さすがにマズイと思って、必死で勉強したら20番目くらいまで這い上がることはできたのですが、大学受験では浪人を経験。親からの勧めもあって、米国シアトルのコミュニティカレッジへ留学することにしました。学問での収穫以上に、大きかったのが、自己流のネットビジネスをアルバイト感覚で始めたところ、それがうまくいき、インターネットの醍醐味を知ったことでした。ITやインターネットが持つ魅力に惹かれたのは、米国での学生時代ですが、その後、複数の会社で上司や同僚にも恵まれて、様々な役割をやらせていただく中で、自分の能力を伸ばしていくことができました。キャリアの大部分はITやデジタル関連の仕事だったのですが「結局のところ、自分が価値を出せる専門性とは何なのか」がはっきりしたのはわりと最近です。
カタリナマーケティングや日本マクドナルドのように、売場や店舗といったリアルな局面とネットとをまたいで行うような分野で働いた時、最も価値を出すことができたように感じていますし、私が追求していくべき領域もそこにあるのだと思っています。今後もネットの中で完結してしまうような世界ではなく、リアルなお客様や、そのお客様と接していくかたたちを意識しながら、デジタルが持つ力や機能を活かしていきたいと思っています。マイクロソフトなどでプログラミングを経験したことは、非常に大きかったと思っています。リアルなビジネスにITやデジタルを活かしていく時代だからこそ、その基本であるプログラミング言語やテクノロジーの仕組みを多少なりとも知っていることが生きてきます。
最近では日本の経営者層もプログラミングを学び始める傾向が出てきていますが、素晴らしいことだと思います。今後もしもCDOやCTOのように技術をベースにしながら経営にも携わっていきたいと考えているかたには、今からでも遅くないのでトライしてほしいと思います。想像以上の気づきや学びがありますので。また技術者の身になって考えることもできるようになります。たくさんあり過ぎてどれか1つを挙げることができません(笑)。とにかく、新しいことにチャレンジしたい人間でしたから、非常に数多くの会社で、多様な役割を経験してきましたし、ほとんどが新しいことへの挑戦でしたから、いつも試練を味わっていたようなものです。
ただ、本当にありがたかったのは、すべての職場が、私のようなチャレンジャーを認めてくれる風土を持っていたことです。そういう意味では、今チャレンジのチャンスをくれているミツカンもまた、良い意味での試練の場だと考えているところです。たくさんのかたに影響を受けましたが、特に強烈だったのは、日本マクドナルドで出会った2人です。1人は直接の上司でもあった足立光さん。とにかく、二極のバランスを絶妙にとれるかたなんです。例えば理想と現実、ロジカルとクリエイティブ、というように双方を共存させなければいけないけれども、互いに対極にある存在で、なかなかバランスをとりにくいものを、うまく共存させていく。その妙技に感動しつつ、影響を受けていきました。「ゴールは何か」にこだわるかたでもありました。そこをブレずに追求する働き方も、お手本にさせてもらいました。
もう1人はCEOのサラさんです。経営を任された頃の日本マクドナルドは、本当にピンチだったのですが、冷静に現実を受け止めながらも「変われる」と発信し続けて、大人数を巻き込んで変革を成し遂げてしまいました。このかたの強さにも大いに学ばせてもらいました。CxOには、2種類あると考えます。1つはCEOやCFOのように、これまでの組織においても違う名称で誰かしらがその機能を果たしてきたもの。もう1つがCDOのように、時代の要請もあって新しく生まれてきたものです。
専門性をもって経営に貢献していくチーフオフィサーの存在は、今後も変わらずに重要であり続けると思いますが、後者の新しく生まれてきたCxOの中には、この先、例えばCOOやCMOの役割の一部となっていくものもあると思います。
特にデジタルについていえば、2019年の今は新しいものとして扱われていますが、かつてのITが時とともに経営に使われるのが当たり前になったように、デジタルもまたそういう位置づけになるはず。そうなれば、いつかはCDOが良い意味で必要なくなる企業もあるでしょう。大切なのは企業という組織が、いかに新しい価値をインテグレーション、つまり融合させていけるか否か。それを成功に導くのがあらゆるCxOの重要な役割だと考えています。キャリアビジョンをどうするか、という前に、今の私にはやるべきことがたくさんあります。まずはそれらと向き合っていきたいと思います。長期的な視点で変革を起こそうとしているミツカンの姿勢に強く共感しているのは、さきほども申し上げた通りですが、だからこそ、私としてはQuick Winを重ねたいと思ってもいます。
つまり、社内の様々なところで小さくてもいいからデジタルを使った成果を重ねていく。そうすることで多くの社員の意識の中に「いろいろできることがあるじゃないか」というポジティブな気持ちを喚起していきたいんです。
自分自身のキャリアのこれからについては、一連のミツカンでのチャレンジが続くうちは、具体的になっていかないと思いますが、親が学習塾を営んで教育に携わっていた影響もあってか、なにか人の成長につながるような役割に就いていけたらいいなあ、と思ってはいます。メッセージは3つですね。1つめは「若いうちにできるだけ『出る杭』になりましょう」です。私自身のこれまでのキャリアパスが良い参考例になるかどうかはわかりませんが、とにかく「成功するキャリア」が何なのか、よくわからないまま、興味がわいたものに手を出していきました。
考え込んでいるくらいならば、とにかく動いて経験して、少々目立った「出る杭」になってもいいから、そこで得たものを積み重ねていけば、自然と進むべき道も見えてくると思うんです。
2つめのメッセージは「グローバルな視点を持ちましょう」です。私などは大学受験に失敗して、成り行きで米国に行ったりしたことが、むしろ良い経験につながったのですが、その後も複数の外資系企業で働いたことから、グローバルな視点の基準みたいなものを肌で知ることができました。
日本で昔から根づいてきたものとは明らかに違うものがそこにはあります。端的に言えば、発言権の取り合いみたいな様相が、常にあるんです。これからは国内市場がシュリンクしていくわけですから、どんな企業に入ろうとグローバル基準で働くことになります。そこで価値を出していくための視点や姿勢は、誰にとっても必須になるはずですから、意識を高めて獲りに行ってほしいと思います。
3つめのメッセージはITやデジタルに携わる場にいるかたがたに向けてです。「リアルなものや場面にもっと目を向けましょう」と言いたいですね。例えばCDOになるにせよCMOやCIOになるにせよ「技術やデジタルに精通していれば通用する」なんてことはあり得ません。テクノロジーで何かを変えようとする時には、必ず人間が介在します。AIなどの技術がどんなに進化しても、それは変わらないはずです。
リアルを知り、人間を知る者こそが、デジタルをはじめとするテクノロジーを価値あるものにすることができるのだと私は確信しています。ぜひ、リアルとデジタルの両方に同じように目を向けて、自身を成長させてほしいと思います。学生時代からITに関わる仕事を志向していた私ですが、1990年代半ばの日本は、バブルがはじけた影響もあって、就職氷河期と言われていました。ですから、大手IT企業やベンダーに入りたくても、なかなか叶わない状況だったのですが、他方で消費者金融企業は不況時におけるそもそもの強みばかりでなく、自動契約機の普及によって業績を急速に伸ばしていたんです。私としては独自のテクノロジー活用に魅力を感じたこともあり、プロミス(現SMBCコンシューマーファイナンス)に入社し、IT部門の一員として経験を積んでいきました。
急成長する業界のトップ集団で先進的な技術に一通り触れたことは、その後の私にとっても大きな財産となったのですが、グレーゾーン金利の問題などが徐々に指摘され始める中で、業界全体がビジネスモデルの修正を求められるようになり、各社、メガバンクグループ等との連携関係を年々強化していくようになりました。
特に不満を感じたわけではなく、任されている仕事にもやりがいを感じてはいたのですが、業界再編の中、異なるフィールドで経験を積んでも良いのではないかと、徐々に考えるようになり、チューリッヒ保険への転職を決めたのです。
同じ金融業界とはいっても、まったく異なるビジネスモデルの保険会社。しかも典型的な日本企業文化ともいえる環境から外資系企業への転職でしたから、当初は相当戸惑いを感じていました。それでもインフラ領域の一担当者からスタートをして、運用面の部門長、開発の部門長を経て、最後はIT統括本部の副本部長までやらせてもらうことができました。この時期にCTO的な役割を経験できたことが、後々非常に役立っていると思います。
また、この時期に結構タフな役目も経験しましたので、マネージメントや経営というものをきちんと学ばなければ、という意識も芽生えていきました。そうなるとこれまで事業会社の一員としての経験しか持っていないことが気になるようになり、違う立ち位置で学べる環境を望む気持ちも膨らんでいったんです。そうして決意したのがIBMへの転職でした。
それまでプロミスで12年間、チューリッヒで9年間を過ごしたのに比べ、IBMにいた期間はごく短いのですが、コンサルタントとして主に日本の保険会社の経営層と向き合えたことは大きな学びになりました。組織の内側にいたらかえって見えづらい経営上の問題点の存在にも、外側にまわったことで気づくことができたのです。そうそうたる企業の経営陣を相手にコンサルティングを行っていくわけですから、ありきたりのインサイトや提案では通用しません。大いに鍛えてもらえた1年間でした。
そして2016年、ニッセイ・ウェルス生命(旧マスミューチュアル生命)からシステム管理部門の部門長就任のオファーをいただき、入社を決め、システム全般に関わりながら、経営にコミットする仕事を担うようになっています。
ニッセイ・ウェルス生命が旧マスミューチュアル生命の時には、シニアの富裕層にフォーカスをした特徴的なビジネスモデルを全面に押し出していましたし、基本的な方向性は今も変わっていないのですが、日本生命のグループ傘下に入ったことで、販売チャネル拡大を通じ、今まで以上に顧客層を広げることが、社としてのミッションになっています。事業規模は急速に拡大し、成長スピードも加速しているわけですが、CTOとして私が果たすべき役割は、そうした急拡大に耐えうるシステムと仕組みと組織の確立を達成することにあります。
保険会社のテクノロジー・オフィサーということから、最近話題のインシュアテックという先端動向について話を聞かれることもあるのですが、そうした技術面の課題以上に、経営上の地盤固めにおいて、CTOとしてどう貢献していけるか、というのが現状の私のミッションだと捉えています。
中学に通う頃からバンド活動を始めたのですが、高校に入ってからはすっかり夢中になりました。大学進学を考える時にも、真剣に音大を目指そうかと思ったほどでした。本当に真面目に自分の将来を考えた結果「どうしてもミュージシャンになりたい」というよりは「どんな形でもいいから、音楽に関わる仕事に就きたい」というのが自分の望みなのだと認識し、それもあってITに携わる道を模索するようになったんです。
工科大学の工学部に行ったのも、コンピュータサイエンスが好きだったから、というよりは、IT技術で音楽の世界に関わりたかったからです。最初の自己紹介ではあえて言いませんでしたが、就活でもレコード会社などを受けたりしていたんです。しかし、ろくに大学に通わず、当然成績もパッとしませんでしたし、冒頭でも言いましたように当時の日本が不況だったこともあって、プロミスへ入社したんです。これもチューリッヒ時代です。今と違って、2000年代の日本にはまだ終身雇用が当たり前だった時代の価値観が根づいていましたし、プロミス時代の私もまた、定年まで働くのが当然だと思っているところがあったので、転職をしたこと自体が大きな転機でした。しかも、まったく企業カルチャーの異なる外資系への転職でしたから、入社してしばらくはカルチャーショック的な戸惑いの連続でした。
また、英語を使ってビジネスをするのも初めてでしたし「与えられた仕事」だけでなく、自ら動いて仕事を獲りに行くような働き方が許される環境も初めてだったんです。ただし、この働き方は私には合っていました。自分の心にスイッチさえ入ればとことんやるのが自分流でしたので、途中からは伸び伸びと働くことが出来ました。チューリッヒに入って数年後、システム開発の部門長になった時です。世の中的にも、リーマンショックによる大打撃からどう立ち直るかが業種を超えてテーマになっていた時期でした。チューリッヒもまた経営上のコストをドラスティックに削減していくことが急務となり、私にも人件費削減というミッションが課せられたのです。システム開発やシステム基盤運用領域のニアショア・オフショア化も推進しましたが、それだけでは目標とするコスト削減には届かず、苦渋の決断で社員に退職してもらうための交渉を1人ひとりとすることになったのです。
こうなれば技術云々という話ではありません。問われるのは胆力であり、メンタルの強さ。経営方針に紐付いてマネージメントを行い、リーダーとして動く上では、こうした組織上の難しい問題にも正面から向き合わなければいけないんだということを痛切に感じました。
CTO的な立場になり、技術と経営の連携を強化して会社を強くしていく、という仕事はたしかに醍醐味のあるものではあるけれども、会社の業績はいつも良いとは限らない。業績好調の時ならば、マネージメントは簡単です。本当の意味でリーダーがその資質を問われるのは、会社全体が良くない時。その時、どれだけの成果を上げ、なおかつメンバー個々に責任を果たしていくかが、重く問われる立場なのだということを、この時、強く心に刻みつけたんです。これまでに出会ったすべてのかたから影響を受け、学ばせてもらいましたが、誰か1人を挙げるとするならば、プロミス在籍時に出会ったCIOのかたです。当時のプロミスはほとんどが生え抜き社員で構成されていたのですが、ある時IBMにいたかたがCIOとして入ってきて、その視野の広さに驚かされたんです。
誰もが目の前にある自分の仕事にばかり気持ちが行きがちな中で、この人が示す視点の客観性や大きさに、非常に刺激を受けました。そして、やはり外の世界を知っているかたでもありましたから、その後私が転機を迎えるたびに相談に乗ってもらい、今でもおつきあいをさせていただいています。話題になってから10年以上が経過していますが、いまだに『生協の白石さん』(講談社刊)を開くと、相手を的確に捉える感度の素晴らしさに感動しますし、採用面接の折などは多少意識しながらコミュニケーションをしたりもします。
もう1つ、とりわけ私にとって大きな1冊がジョン・コッターの書いた『カモメになったペンギン』(ダイヤモンド社刊)です。CxOは、今後も間違いなく企業経営に不可欠な存在であり続けると思います。専門性と経営に関わるナレッジとをかけ算して、企業の成長に貢献していく役割は、なくなることはないでしょうね。ただし、すべてのCxOがこの先も今と変わらない位置づけで存続するかどうかはわかりません。常にビジネスの主流となる要素は変化しますから、その時のトレンドに合わせて新しく登場してくるCxOもあるでしょうし、現在のCMOとCIOのように役割がどんどん接近していき、場合によっては1人のオフィサーが兼務するようなケースも出てくるでしょう。
また、広い意味でのテクノロジーをベースにするCTOは今後も重要な位置づけでいるとは思いますが、問われるテクノロジーがIT一辺倒ではなくなるだろうとも考えています。言い換えればCxOに就任した人間も日々アップデートしていく必要があるということです。伝えたいことは2つあります。1つは、業務から得られるスキルアップが限定的なものでしかない、という事実を心得ておいてほしい、というもの。例えばCTOを目指すというのであれば、もちろん技術に関する知識やスキルは大切ですし、その多くは眼前の業務を通じてでも育てていくことはできるでしょう。しかし、与えられた環境で学べることには限りがありますから、どこまで自主的に貪欲に学びを外に求めていけるかが問われます。
そしてそれ以上に、技術だけではCTOの役割は果たせないということを知っておいてほしい。私自身、事業会社のIT担当というワクの中では学べないものを求めて、IBMへ転職をしました。環境を変え、視点を変え、向き合う対象を変えるだけで、まったく違う景色が見えてくるのだということを理解してくれたらいいなと思います。もちろん、転職するばかりが有効とは限りません。例えば技術の仕事をしながら、マーケティングの領域に踏み込んでみたり、国内の事業に携わりつつもグローバルな市場にアンテナを立ててみたり、やれることはいくらでもあると思うのです。
伝えたいことの2つめは、評価は成果でしか計れない、という現実も知って欲しいということです。特に技術職に就いている人たちは、営業職とは違うのだから数字とは関係ない、と思ってしまいがちですが、もしも将来的に経営に携わることを目指しているのならば、所属する部門や任されている職務に関係なく、数字、すなわち結果に責任を感じながら働くべきだと思っています。
アマチュアスポーツの世界ならば「負けはしたものの、良い試合をした」ということで評価してもらえるかもしれませんが、私たちはプロフェッショナルですし、勝つことを目指したチームにいます。技術職であろうとバックオフィスであろうと、すべての人間が戦略的に勝つために自分の役割を認識し、得点に貢献していくべき。そういう意識で臨めば、経営を担える立場になった時、日々の積み重ねが大いに役立ってくるはずだと信じています。ぜひ、点をあげられるプレイヤーとして経営者意識で精進してください。私が就職活動をしたのは1980年代の半ば。多くの学生が商社や金融機関などを目指していた時代でしたが、私は技術力の強みを活かしてグローバルで将来成長していきそうなメーカーに魅力を覚え、そういう企業で働くことを希望していました。そうして入社したのが日本電気(以下、NEC)です。当時、通信やコンピュータ、半導体で躍進していたNECで、海外関連の部署に就くことを志望していたものの、配属されたのは国内工場。そこで労務管理を中心に人事の仕事をしていくことになり、以来、一貫して人事分野を歩むことになりました。
こつこつと地味な職務を国内でこなしていく日々が続いたものの、運よく巡ってきた転機が海外留学制度への選出でした。米国パデュー大学のビジネススクールでMBAを取得したことで、グローバルとの関わりが始まったのです。帰国後は本社の国際人事部門で外国人採用の仕事を担い、1991年には米国で立ちあがった基礎研究所に人事責任者として赴任しました。言葉の壁とは、留学時代から格闘していましたが、この赴任によって欧米のカルチャー、とりわけ働き方に対する価値観の違いと格闘する日々もスタートしたのです。また、20代でチームをもてたこと、スタートアップの組織においてガバナンスをいちから整えていくという貴重な経験を得たことなど、恵まれていました。
その後、帰国すると本社の人事マネージャーとして再び国際人事に関わっていったのですが、大企業の本社機能に長くいると、どうしてもビジネスとの間に距離感が生じてしまいます。「もっとビジネスに直接かかわる場で成長感をもって働きたい」という気持ちが強まる一方で、2000年代に入ってからは日本の電機産業全体がグローバルにおいて収縮傾向に入ったことも手伝い、転職の可能性を少しずつ考えるようになりました。
そういうタイミングに、知人が紹介してくれたエージェントからマースの話をいただきました。BtoCマーケットで消費財を扱うこの企業の名前を、当時の私は知らなかったのですが、聞けばペットフードのペディグリーやチョコレートのM&M'sなど、世界市場を席巻するような商品を扱っているとのこと。興味がわいて、同社の役員数名に話を聞かせてもらいました。実に不思議な面談でした。ほとんどの方が「大変ですよ、本当にいいんですか?」と心配してくれるのです。私自身、40代での初めての転職、しかも畑違いの外資企業への転身でしたから迷いましたが、どういうわけか根拠もなく「なんとかやれそう」という直感もあって、決断をした次第です。
マースには英国人HRヘッドの後任候補として入社したのですが、すぐに多くの役員が「大変ですよー」と言ってくださった意味がわかりました。意思決定やアクションのスピード、必要とされる英語力が違うだけでなく、入社翌年には、日本を含む多くのマーケットで大規模な組織再編とリストラクチャリングが実行されました。自分の身の上さえ案じた時期もありましたが、とにかくHRの人間としてこのタフなミッションを乗り切り、会社を成長軌道に復活させる変革マネージメントに携われることによって、成長することができたと思っています。
こうして、結果的に「ザ・日本企業」に20年、「ザ・グローバル企業」に7年在籍し、国内外のHR分野の仕事を経験してきた私のもとに、ある日、トリンプ・インターナショナル・ジャパン(以下、トリンプ)からお話が届いたわけです。前の転職も、BtoB中心のハイテクからBtoCの消費財というチャレンジでしたが、今回もまたアパレルという未体験領域であり、同じBtoCといっても女性を対象にしたリテールビジネスということになります。ただし、前回同様、私にとっては「まったくの畑違い」という要素は「興味やチャレンジ心をそそられる」というポジティブなものでした。しかも、日本を最重要市場の一つとし、多くの消費者に日本企業と思われるくらいこの国の市場に浸透しているトリンプが、グローバル企業としての強みにレバレッジを効かせることで、さらに成長を目指そうとしているというお話を聞き、大いに心動かされたのです。まさに自分が得てきた経験を活かすことができそうだし、非常にダイナミックな変革に携わることができる。そう感じて、お話をお受けし、今に至っています。
取締役人事本部長として他の役員とともに日本法人としての意思決定や執行を行う立場にあると同時に、トリンプのグローバルHRBPの一人でもあり、ホールディングやビジネスユニットの幹部と協働して日本のビジネスをサポートし、変革を推進していくミッションも担っています。トリンプが日本で築いてきた資産や強みを大切にしながら、新たなチャレンジを行っていくのが私の使命。これまで、いわゆるHR業務のみならず、お客様相談室や販売スタッフトレーニングにも携わる機会もいただきました。エンドtoエンドを網羅する製造小売業は消費財に比べてはるかに複雑です。HRの観点でもチャレンジが大きく、それを実感しながら、成長感をもって仕事をしています。
トリンプ・インターナショナル・ジャパンは、消費者認知の非常に高いブランドや製品をもちます。それらを心から愛し、誇りに思っている人が集い、オープンかつカジュアルでフラットな環境や働きやすさを実現しています。女性向け商品の会社ですが、男性や外国籍社員も多数在籍していて豊かな多様性も備えています。これらの強みをしっかりと継承しながら、どうすればMake a difference できるか、そのための組織や仕組み、人をどう育てていけるか、というテーマに取り組んでいるところです。
キャリアインキュベーションでは2013年より「プロ経営者インタビュー」をWEBコンテンツとして展開して参りました。3年近くが経過し約40名のプロ経営者の方にご協力いただいております。
2015年10月にはこのインタビューをベースとして「職業としてのプロ経営者」として書籍化も実現いたしました。この「プロ経営者インタビュー」は今後も続けて参りますが、更に視野を広げ、発展させるために「CxOへの道」をスタートさせることに致しました。
WEB記事をお読みいただいたお客様や多くの候補者からの声もあり、CFO、CSO、CMO、CHRO、CIO、CTO等の皆さまを対象とした企画でございます。
現代の企業経営はより複雑・高度化しておりCEOが一人で舵取りするのではなく、チームで経営することが求められるようになりました。多くの企業では、コーポレートガバナンスコードの導入、事業戦略の再構築と実行、グローバルM&A,デジタル化やオムニチャネルへの対応、この環境下であるべき組織構築とグローバル人事戦略など課題は山積です。そこでチームとしての経営人材に視点を当て、どうすればそれぞれの専門性と高度なマネージメントスキルを獲得できたのかを探っていきたいと思います。
ただ、新卒で入社しそのまま内部昇格でCxOになられた方ではなく、転職した方を対象としたいと考えています。それは転職ノウハウをご紹介したいわけでなく、自ら環境を変えチャレンジし、プロアクティブにご自身の意思でキャリアを構築されてきた方こそロールモデルに相応しいと考えるからです。
今後、ファイナンス、経営企画、マーケティング、IT、人事などで活躍している20代、30代の若手をインスパイアしていき、挑戦する若者を一人でも輩出したいと考えています。
弊社は従来、コンサルティング、プライベートエクイティに人材をリクルートしてきましたが、これからは更にビジョン実現のためにプロ経営者やCxOの転職市場を創造します。CxOネットワークを構築し、将来経営者になれるような人材を長期に渡り支援して行きます。
]]>私は学生時代の就職活動では、特に強いこだわりを持っていませんでした。ただ「海外の物を扱う仕事」には関心があったので、輸入事業を展開する企業を中心に受けていき、最終的に世界各国の酒類・食品類を扱う明治屋に就職をしました。担当職務は営業。酒販店やスーパーを対象にしたセールスを8年以上の間、一貫して担っていました。
しかし、当時様々な分野で価格破壊戦略を進めていたダイエーが、お酒の販売でも積極的な価格訴求を展開し始め、古くからこの業界で安定した実績を上げていた事業者が軒並み動揺していく中で、先行きに不安を感じ、転職を考えるようになりました。そうして入社をしたのが外資系食品大手のマスターフーズリミテッド(現マース ジャパン)です。
頑張って結果を出せばフェアに評価をしてもらえる、という経営体制と、ペットフードをはじめ手がけている各事業領域において、新しい市場の創造を推進していこうとする姿勢とに共鳴をしたんです。
人材育成についても多様性を重んじるカルチャーがあり、私自身、ペットフードの営業マネージャーを務めていた時期に「営業部隊と人事部門との関係性を一層深めて密な連携をとれるようにしたい」という話をもらい、HRの仕事に就くようになりました。
大きなグローバル企業で初めて人事の仕事をやるとなれば、英語力にも自信はありませんでしたし、いろいろと不安もつきまとったのですが「今までは海外製品を営業してきたけれども、今度は採用の仕事を通じてこの会社の魅力を営業するんだ」という考え方でトライしていったんです。「営業を熟知した人間がHRにも精通していけば、付加価値の高い人材になれますよ」と当時の日本人上司にバックアップしてもらった点も大きかったと思っています。
加えて、英国人の人事ヘッドに「人事のロールにこだわり続けることはない。2〜3年経験を積んだら、今度は自分の考えでキャリアを作っていけば良い」とも言ってもらったので、その後、ファイナンス部門に異動をして需要予測の仕事にも就きました。そして、次はサプライチェーンの部門へと移ったのですが、SCMは高度な専門性が問われる仕事。「自分も拠り所になる専門性を持たなければ」という意識が高まった結果、HRで最もやりがいを感じていたことを思い出し、この道で成長していこうと決めました。
以前は採用の仕事しかしていませんでしたから、それ以外の多様な人事業務全般を学べる場を求めるようになったのですが、すでに社内には経験豊富で優秀な人たちが揃っていました。そこでチャンスを外に求め、2度目の転職へ乗り出し、医療機器メーカーのスミスメディカル・ジャパンで人事業務全般を担い、さらにマスターフーズ時代に仕事でつながりを持っていたニールセンからお声をかけていただいて、現在に至っています。
転職を重ねてきて実感したのは、その会社の価値観やカルチャーと自分がフィットするかどうかの重要性です。私としてはマスターフーズで経験したようなオープンな企業風土を求めていたので、以前仕事で関わりを持ち、その発想の近さを確認できていたニールセンからのオファーは非常に嬉しいものでした。事実、入社してすぐに様々な考え方や理念に共感でき、やりがいを感じたのです。現在はCHROとして人事分野全体の業務を見ながら、経営との連動にコミットする立場にいます。日本拠点はもちろん、韓国についても担当をしているところです。
國學院久我山で陸上部に入り、夢中ですごしたのですが、この高校には小中学時代と違って本当にいろいろな生徒がいて、これもまたその後に生きる経験になりました。とにかく勉強一筋の子もいれば、運動にすべてを捧げている子もいるし、1日中マンガを書いているような子もいる環境です。
人間というのは一通りではなく多様なんだ、という事実を体感し、なおかつそういう多様性のある集団の中でどう振る舞えばいいのかも身体で覚えていくことができたんです。学生時代の私は「やるならばプロフェッショナルな仕事。どうせ働くのなら(普通の)人とは違う場で働きたい」などと、いきがったセリフをよく口にしていました。しかし、実際に就職活動を進めていく中、結局手に入れた内定は大手総合商社や外資系投資銀行ばかりでした。「このままでは自分が言っていたことと全然違うじゃないか」という自己矛盾を抱え始めた時に、ドリームインキュベータ(以下、DI)の存在を知り、入社することを決めました。
今でこそ規模も大きく、知名度も高いDIですが、当時(2004年)は設立からまだ4年で規模も小さく、初めて新卒採用を行った年。同期入社はわずか2名のみという環境下、早々に現場に投入され、次々と案件を経験する中でコンサルタントとしての仕事を覚えていきました。
想像を絶するような忙しさではありましたが、まさに学生時代に志していたような経験と成長を手に入れることができたと思っています。なによりも糧になったのは、常に大手企業とベンチャー企業の双方を担当し、いずれも成長支援をテーマとしたプロジェクトに携わり続けた点です。「大企業とベンチャーへの支援を両輪に」というのはDI自体がアイデンティティとしていたポイント。
おかげで「高水準な戦略を問われる局面」、「戦略の出来映えよりも実行段階での結果に強くコミットすべき局面」の両方をバランス良く経験することになり、私自身の成長に良い意味で影響を与えてくれたのです。担当したプロジェクトの業種が多岐に渡っていたことも、私としては大いに勉強になりました。
入社から丸4年が経過するとマネージャーに就任し、それ以降は市場の成長性や自分自身の将来も考え、特にコンシューマーグッズの案件やプライベートエクティの投資案件を数多く支援・担当していきました。その後、2011年にDIは事業投資の一環としてアイペットを買収したわけですが、当時のアイペットは「売上規模24億円、収益は赤字」という状態の少額短期保険業者でした。
大きな将来性を見込んでの投資とはいえ、その経営を建て直すチャレンジは容易ではありません。アイペットの中に入り込み、「支援」ではなく「当事者」として変革を目指そう、という人間は社内には多くはおりませんでした。しかし、私の目にはアイペットが非常に魅力的に映ったのです。
「リソース不足の状況を抱えながら、短期的にも中長期的にも成功していくことを義務づけられる」というのは成長企業の常ですが、その渦中に入って、これまでに培った力をハンズオンでふるってみたい、という気持ちが私の中で膨らんできたタイミングでした。
そしてもちろん、アイペットがリードする国内ペット保険市場の将来的な成長性にも魅力を感じてもいました。そこで2012年に自ら手を挙げ、このチャレンジに参画したわけです。2016年にはDIを辞め、正式にアイペットへ入社。「筆頭株主から派遣された変革担当者」としてではなく、アイペットの人間として、この会社の成長を目指しています。
COO、CFO、CTOなど、いわゆるCxOの範疇である役職名は日本でもだいぶ浸透してきましたが、CSO、つまりチーフ・ストラテジック・オフィサーという役割はまだ馴染みが薄いかと思います。要は戦略策定〜実行というものに軸足を置きながら会社経営における責任を果たしていく立場。アイペットにおける私の役割を具体的に挙げれば、3つに分かれます。
まず1つは経営企画部を所管して、この会社の中長期的成長を見据えた戦略の策定を行っていくこと。もう1つの立場は社長室の管掌。現実の企業活動では、すべてがキレイに戦略通り実行されるわけではありません。非定型な案件も時には浮上しますし、戦略で見込んでいた事柄とは無関係にポテンヒットのような成果が上がったりもします。そうしたイレギュラーな事象も含めたあらゆる経営イシューにタッチしていくのも、私の仕事の1つというわけです。
そして3つめとして、所謂コーポレート・ディベロップメントについても、私が担当させて頂いております。リアルで短期的な戦略実行の場として現場に深く関わる一方で、事業提携や出資事案にも携わっています。
つまり、長期的なビジョン、「あるべき論」の青写真を描きつつ、短期的で現実的な視点も併せ持ちながら戦略を現場に落とし込み、実行に責任を持つのが私の役割です。おかげさまで前期(2015年度)には売上81億円を達成し、収益でも4億の黒字を達成。今期(2016年度)はついに売上規模で100億の大台を達成できるかもしれないところまで成長することができました。
現在は近い将来の上場プランも踏まえつつ、社長をはじめ、営業のトップやCFOらと形成している経営チームの一員として目標の実現を目指しているところです。ごくごく普通の、野球に夢中な少年だったと思います。ただ、小学校4年生くらいの時、「この程度の腕前では将来、野球選手になるのは無理だ」と自分なりに判断し、親に「野球じゃ食えないから、勉強を頑張る」と進言したんです(笑)。土下座して進学塾に通わせてください、とお願いをしました。この話をすると、たいてい「子どもらしくない」と驚かれますが。
そうして実際、5年生からは塾に通って毎晩午前2時ごろまで受験勉強をして、中高一貫の進学校に入学しました。「食うための勉強」(笑)は、その後も継続しましたが、中学に入ってからはバスケットボール部に入り、これにも熱中していきました。高校でもバスケ部に入って、キャプテンもやりました。中学の頃と変わることなく勉強とバスケットの毎日で、大学受験の勉強は高校3年生の夏休みで終わっておりました。が、そうして京都大学に合格すると、これまでの反動がものの見事に出ました。
金髪のロンゲというスタイルで(笑)、当時盛んだったクラブイベントを開催するサークルに入り、わいわいとやっていました。それでも今振り返ってみると、この頃の様々な経験がすべて、その後のビジネスでの成長に大いに役立ったように感じます。
進学校にいながら受験勉強とバスケットを両立させたことで、タイム・マネージメントをはじめ、あらゆるリソース・マネージメントを自分なりに実行できるようになりました。また、バスケット部のキャプテンやイベントサークルでの活動を通じて、「アイデアを考え、それを皆にプレゼンし、最終的にはチームをまとめて実行していくところまで責任を持つ」という体験もできたわけです。
好きなことを好きなようにやっていた学生時代でしたが、結構、将来につながるようなこともあったのだな、と思っています。自分ではまだ「専門性を確立した」とは考えていません。そもそも戦略というものは、それぞれの企業が置かれている状況次第で大きく変化します。非常に個別性の高い分野であり、うまくいったかどうかは結果論でしか見えてこないものなんです。とはいえ、これまで戦略の立案から実行に至る部分に携わり続けてきたことで、多数の汎用性のあるスキルは手に入ったと自負しています。
アイペットのような数百名規模の会社を伸ばしていくのに必要な様々なスキル、能力の多くはDIでの実務の中で吸収したと思っています。ただし、売上が1兆円規模のような大企業で戦略の専門家となっていけるような専門性をマスターできているとは思いませんから、「専門性をすでに確立したとは思っていない」と申し上げたまでのこと。
「なぜ戦略というものを専門にしようとしたか」という点については、深く自己分析したわけではないのですが、もともと好きな領域だったのは確かです。日本のビジネスパーソンには「三国志」を好む人間が多いと思いますけれども、私もその一人。特に諸葛亮孔明や司馬懿といった軍師に魅力を感じてきましたから、勝つための計画を練り上げる戦略の仕事にも魅了されていったのだと考えています。
とはいえ、DIというコンサルティングファームに入ってみて気がついたのは「戦略」好きにも2パターンある、ということ。1つは戦略を作ることそのものが純粋に好きな人、もう1つは戦略策定も好きだが本当のところは、支援をしたりお節介をやくのが好きでコンサルタントをしているというパターンの人。私はどちらかというと後者に近いと思っています。私は大学時代、人間科学部で主に心理学の勉強をしていました。就職に有利かどうか、ということとは無関係に、ピュアに学ぶことを楽しんでいたわけですが、いざ就職活動をする時期が来ると、結果、当時の就活生人気企業ランキングでナンバーワンだったNTTへの入社を決めました。そのころNTTはTVCFを中心にしたキャンペーンを大々的に展開していたこともあり、なんとなく「広告宣伝の仕事ができたらいいな」と思っていたわけです。
ところが入ってみると、総合職の社員は全員、3年をかけて様々な部門を経験していくという育成計画に投入されることになりました。当時の日本の大企業では珍しくない手法だったとは思うのですが、私はそれが納得できず、入社4ヵ月で退職願を提出してしまいました。今になって振り返れば、若気の至りとしか言いようがない行動ですけれども、それまで自分の意見を主張することもなく、親や周囲の大人が敷いてくれたレールを上手に走っていた優等生の、生まれて初めての自己主張でした。
結局、叱責されてもおかしくない事態にもかかわらず、本社の人事部長からも直々に「話を聞かせてくれないか」と言っていただき、いろいろと話をさせてもらいました。そして、こうした懐の深さに感じ入りながら、3年間仕事をさせていただいたんです。社会人として自立するうえで、とても貴重な経験をさせていただいたと今でも感謝しています。
それでも私の中に芽生えていた「広告宣伝の仕事を」という気持ちは変わらず、米国の大手広告代理店レオ・バーネット社の系列企業への転職を決めました。P&G、フィリップ・モリスなど、外資系大企業のクライアントを持つ会社でしたので、常に大規模なプロジェクトが動いていました。
そうした恵まれた環境のもと、私はセールスプロモーションやアカウントマネージメントなど、一連の仕事を覚えていくことができました。ただし、大きな挫折感を味わったのもこの時期です。自分が所属する会社も外資で、クライアントの多くもまた外資ですから、社内ミーティングでもお客さまとのコミュニケーションでも、基本は英語です。語学力の不足を感じるとともに、コミュニケーションそのものにおいても自力不足を感じ「どこかで思い切ったストレッチをしなければ」という思いが膨らんでいったのです。
そうして決意したのが留学です。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学院を選択した理由は、社会心理学課程のカリキュラムを持つ数少ない場だったからです。留学を具体的に考える過程でビジネススクールへの入学も検討はしたのですが、大学時代から心理学を学んでいましたし、当時の私の最大の課題は広い意味でのコミュニケーション力向上でしたから、いわゆるMBA的な素養を伸ばす前に、まずはこの領域で成長を目指そうと考えたのです。
修了後に帰国してからの就職先を当たっていく上では、広告代理店も選択肢に入れていたのですが、最終的に米国の音響機器メーカーであるボーズの日本法人へ入社しました。「広告の仕事だけを専門にしていくよりも、事業会社の経営戦略にも関わっていけるような立場になりたい」という気持ちがこの頃には大きくなり始めていました。また、当時のボーズで日本法人の社長をしていた佐倉住嘉さん(現在はカタログハウス社長を経て同社相談役)と面接でお会いして、その経営哲学や人間味あふれるお人柄に魅せられたこともあっての入社でした。
このボーズで、私は10年以上を過ごすことになるのですが、入社当初から一貫してマーケティング領域の仕事をさせていただきました。米国駐在や、プロダクトマネージャーとして商品を担当する経験を持つなど、佐倉社長独自の発想でマーケターとして育ててもらう中、企業経営と結び付いたマーケティングの有りようとでもいうべきものもインプットしていくことができました。
また、2008年ごろまでのボーズはローカルを尊重しながら全体として成長していく路線でしたが、その後はグローバライゼーションを強めていく方向に変わりました。非常に大きな変化です。すでにマーケティング分野を統括する立場に就いていた私としても、試練の場であり、同時にストレッチの機会となりました。
また、この時期はマーケティング領域でもデジタル化へのシフトという大きな変化がありました。社内での経営変革が一定の落ち着きを見せ始めると「新たなチャレンジをしてみたい」という願望が強くなり、再度転職することを検討したのです。
そうして入社したのがクラランスでした。音響の世界からコスメの世界への転身です。ターゲットとなるエンドユーザーも男性中心から女性中心へと変わります。完全な異領域だと言えますが「製品に誇りを持ち、オリジナリティとクオリティにこだわる」という部分でボーズと共通していたのです。在籍期間は1年弱でしたが、多くのことを学ばせてもらいました。なにより大きな教訓は「どんなに異なる事業領域であっても、マーケティングや経営に求められるファンダメンタルは変わらない」と気づかされたことでした。
こうして2014年にお声をかけてくれたのがティアックです。音響機器メーカーという点ではボーズとつながるものの、私が長年生きてきた外資系ではなく、純然たる日本企業という違いがありました。それでもクラランスで得た「ファンダメンタルは同じ」という思いが背中を押してくれました。
また、厳密にいえば米国ギブソン社の傘下になってからのティアックですから、今後はよりグローバルを強く意識して使命を果たしていかなければいけません。ティアックが日本企業として紡いできた「良さ」と、楽器を主軸に置きながらライフスタイル提供企業としてグローバルな成功を収めてきたギブソンの「良さ」の双方を活かしていく。そのためのCMOとしてお声をかけてもらったことを嬉しく思いました。
ボーズ在籍時の後半、グローバルとローカルの双方の間に立って、苦しみながらも成長してきた経験を活かしたい、という気持ちになったのです。生み出すモノに対する愛情の深さ、真摯な姿勢という面からもボーズやクラランスのそれに通じます。「私でお役に立てるなら、ぜひとも」という気持ちでこの会社に来たのです。
ティアックは、確かな技術力と哲学を持ち、実直に最高品質のモノ作りに徹してきた会社です。質実剛健ともいえる企業イメージは、世界的にもブランドとして知られています。私の役割は、そうした「良さ」を維持しつつも、これまでマーケティング的なアクションをあまりとらずにきた風土の中に、基盤となるものを築くこと。より積極的にブランディングしていくための地盤を作り上げることにあります。
まずは過去の業績や経営理念をじっくり見つめるところからスタートし、その上でギブソン社が強く志向する「ライフスタイルへの貢献」や「お客様視点に立った価値創造」との融合も考えながら、新たなティアックの理念を体系化していく営みを進めてきました。
一方、社内的な「マーケティングへの期待値、理解度」がバラバラだったこともあり、古くからいる社員の皆さんとの意思疎通や話し合いの機会を増やしました。共通した理解と期待を持ちながら、皆でマーケティング・リテラシーを向上していけるような場も作っていきました。短期間ではありますけれども、着実にその成果は現れてきていると自負しています。
但し、マーケティングという世界は、市場・競合環境、企業が迎えている状況や成長過程次第で求められる役割が大きく変わる世界でもあります。今後も、ティアックらしさを大切にしながら、この会社の「今」をしっかりと捉え、とるべきマーケティングのあり方を皆と共有しながら強化していく。それが私に課せられた使命であり、責任だと思っています。高校でもバスケ部に入って、キャプテンもやりました。でも、それだけでは収まらなくて、サッカー部のマネージャーもしていましたし、チアリーダーもしていました。体育会的なことばかりではなく、競技カルタ、茶道サークル、バンド活動もしていました。学校自体は進学校でしたが、とにかくやりたいことは何でもやっていましたね。
それでも大学進学の時には、「私はいったい何がいちばん好きなんだろう」と考えました。出した答えは「人間が好き」。人間科学部という学部のある数少ない大学である大阪大学へ進みました。そうはいっても、入学後は勉強ばかりでなく、相変わらず複数のサークルに入っていました。合気道、テニス、スキー、スキューバダイビング、バンド活動などなど(笑)。企画イベントサークルにも入っていたのですが、スポンサーを自分たちで探してきて交渉する、という広告会社的な経験もしていました。大学時代の私は、ろくに授業にも出ず、体育会のボクシング部で練習ばかりしていました。ですから、就職活動をする時期が来ても、将来に対する思いは抽象的で、せいぜい「世界に出て仕事がしたい」という程度。たまたま父が長年、三井物産に勤めていたこともあり「世界で仕事といえば総合商社だろう」という発想から商社を中心に就職活動をしていきました。そうして入社したのが住友商事です。
内定をもらった当初の私は「営業マンになって世界各国を渡り歩く」ことをおぼろげながら夢見ていたわけですが、経理マンだった父から「ビジネスの基本はファイナンスだ。これを知らない者には、どんな事業だって理解できない」というアドバイスをもらい、経理部門を希望することにしました。
配属先は機械電機事業部門の経理です。任された業務は、例えば航空機リースの帳簿付けなど、リアルな事業に関わる非常に興味深いものでした。また、当時の日本では連結決算が始まったばかりでしたから、その基礎的な知識を吸収しながら、連結修正仕訳作成などもこなしていきました。
仕事自体はハードでしたが、ボクシング漬けだった私にとっては、見るもの聞くものすべてが知的な刺激にあふれていて、充実した気持ちで臨んでいくことができたんです。はじめは私自身「いずれ営業に異動する」つもりでいましたし、先輩や上司も私のことをそのようにとらえていたようなのですが、結局は経理畑をずっと歩むようになりました。
転機が訪れたのはインドにある住友商事の拠点に異動となった時です。待ち望んでいた海外での仕事ですし、肩書き的にもファイナンスのマネージャーとしての駐在でしたから、嬉しかったのは事実ですが、周囲と自分との違いを知るに至り、いろいろと考えさせられることになりました。
インドのオフィスでファイナンスチームの一員として働く現地メンバーは皆、CPA的な専門資格を取得し、自らのスキルによってキャリアを形成しようとしていましたが、マネージャーである私はこれといった専門スキルを持っていません。
今の自分は「住友商事の本社社員だから」ということで給料をもらっているに過ぎないのだと感じた途端、「キャリアを真剣に考えなければいけない。自分なりのキャリア・ゴールをきちんと考えよう」という気持ちになったわけです。これが転職のきっかけになりました。
会社を辞め、USCPA資格を取るための勉強をスタートする頃には「自分はいずれCFOになる」と誓っていました。そんな中で出会ったのが「ダウ・ケミカルがタックス・アナリストを募集している」という情報。
決して税務のエキスパートになりたいわけではなかったのですが「CFOを目指すのならば米国の企業が最適」だという認識がありましたし、「いずれはFP&A(ファイナンシャルプランニング&アナリシス)的な仕事もできますか?」と質問したところ、「今すぐには無理でもチャンスはある」という答えが返ってきたことから入社を決めました。
ありがたいことに2年後にはカントリー・コントローラーの役割を担うことになり、経営上の意思決定を次々にしていく経験を得ました。その後の私にとって大きなものとはなったのですが、なりたかったのはやっぱりCFOです。
そのためにはFP&A関連の実務経験は不可欠。そう思ってきたのに、気がつけばすでに31歳。この会社でチャンスを待っているよりも、外に機会を求めようと考え始めたところ、GEグループが未経験者でもいいからFP&Aの担い手を探していることを知り、門をたたいたわけです。
おそらくファイナンスの仕事をまったく知らない者ならば入社することもできなかったでしょうけれど、幸い大規模企業のファイナンスの流れはそれまでの経験である程度理解していました。
また私よりも2つほど年下の優秀なアメリカ人上司がいましたので、彼に様々教わりながら、経営に密接に関わるFP&Aを経験していくことができました。GEならではのリーダーシップのあり方、結果というものへ徹底的にコミットする姿勢を学べたのも大きな収穫でした。
その後、順調に日本におけるCFOの役割も任され、念願がかなったかに思えたのですが、社内の体制が刷新されるのを機に、自分の気持ちを再確認してみたところ「もう少しだけ自分の力を試してみたい」という思いが残っていることに気づきました。
そんなタイミングでいただいたのが、ユニリーバ・ジャパンへの転職話。北東アジア地域のサプライチェーンに関わるビジネス・パートナーとしての職務であり、長年親しんだBtoBではなくBtoCの事業です。
経験ある領域ではなかったのですが、ちょうどチャレンジすることに意義を感じる心境でしたし、その頃ユニリーバが真の意味で1つになり、グローバルカンパニーとしての強みを高めていこうとしている状況を迎えていたため、GEグループで働いた経験で貢献できるのではないか、という気持ちもありました。
さらに、当時社長だった上垣内(上垣内猛氏。現 西友CEO)の人間味に魅力も感じ、入社を決意したのです。その後、日本でのCFOの役割を担うようになり、2012年から現職に就いています。
小学校3年生の3学期まで、父の仕事の関係でカナダに住んでいました。ネイティブのカナダの少年同様に、アイスホッケーのスティックを持って学校に行き、時間を見つけては友だちとホッケーをしたりして遊ぶ普通の子どもでした。その後、いったんは帰国したのですが6年生の時にまた父の仕事の都合で南アフリカへ移住することになりました。
向こうの中学に通う内、子どもなりに将来への不安を感じ始め、「いずれ家族と一緒に日本へ戻ってから苦労をするくらいならば、日本での高校入学のタイミングに合うように、早めに帰国して希望する高校に入れるように準備したい」という決意を親に話し、一足早く日本へ戻ってきました。そうして受験勉強をした結果、慶応義塾大学の附属高校へ入ることができました。高校ではいわゆる応援団に入部しました。外国での生活が長かったこともあり「日本っぽくてカッコイイ」という感覚から入部したような気がしています。正直なところ、厳しい規律の中で苦労もしましたが、おかげで理不尽に耐える根性みたいなものは育むことができたと思います。
大学進学後も応援団を続ける道もありましたが、「今度は人の応援よりも、自分で何かをプレイしたい」という気持ちもあり、大学ではボクシング部に入部し、冒頭で紹介したように、授業そっちのけで没頭していきました。
キャプテンも務めたのですが、本当の意味でのリーダーシップは発揮できていなかったと思います。「まずは自分が選手として結果を出すことがリーダーとして第一」という発想でいたので、実質的に部の運営は別の同級生にまかせていました。ただし、この現実を受けとめたことで、大きな学びにはなったと思っています。新卒から今までずっと外資系企業でファイナンス業務に携わっており、今は子会社のCFOをしています。どのような経緯でこの仕事をするようになったかをお話ししたいと思います。
私が大学に行くころは、まだ女性が企業で長く働き続けて管理職になることが、一般的ではありませんでした。事務職で何年か働いて寿退社、というのが普通でした。それで私も特に何の目標もなく大学に入り、とりたてて英文学が好きなわけでもないのに、まわりの女子が行くから文学部英文科に入ったわけです。
入学後にはESS(英語サークル)の活動が楽しくなり、英語でのディスカッションやディベートを楽しんでいましたが、3回生の時に一緒に海外旅行をした際に母から「思ったほど英語できないのね」と言われたこともあり、一念発起して大学を休学したうえで英国の語学学校へ留学することにしました。
なんとなく英語を勉強していた私に「日本では何を勉強しているの?」と聞いてくる人がいて「英文学だ」と答えると「仕事はなにをするの?」と聞かれて、初めて「英語だけでなく何かほかのことも勉強しなければ」と思うようになったのです。それで、ビジネス・アドミニストレーションのクラスがある語学学校を選び、簿記の勉強を始めました。
帰国後、大学に復学してからも簿記の学校へ通い、同時に英語も勉強をしていった結果、P&G入社時には帰国子女を除いた新入社員の中で、TOEICで一番になったことから入社式で代表を務めることにもなりました。この大学在学中の様々な経験が、その後の私にとって非常に大きかったと今でも思っています。
就職活動時には、日本でも雇用機会均等法が施行されていて、大企業や金融機関では女子総合職の採用を始めてはいたものの、まだまだ男女間の待遇差は歴然としているように見えました。そこで男女同給料という条件のもと、外資系企業を志望していき、入社したのがP&Gだったというわけです。
P&Gは当時の日本の大企業と違い職種別採用でした。当然のごとくマーケティング部門が一番人気の会社でファイナンス部門は比較的入りやすそう(笑)だったということもありますが、簿記を勉強していましたし、数字が得意だったこともあってファイナンスを志望しました。「結婚して子どもができても続けていきやすい職種かな」という思いもありました。
P&Gでは事業部門ごとにファイナンス専任者を置いていましたので、私もその担当者として複数のブランドを経験していくことになりました。日本の経理財務部門の場合、担当者はあくまでも実績の数字を管理する仕事が主になるようですが、P&Gで私が体験したのは少し違っていました。
マーケティング、購買、生産など各部署の人たちと一緒にプロジェクトチームにはいり、彼らが仕事をする上での数値的目標設定をし、どういう資金の使い方をすればよりよいリターンが得られるかを一緒に考えていくのが仕事で、非常に充実した気持ちで成長していくことができました。今思えば、グローバル企業で活躍する本来的なCFOの役割に通ずる仕事に携わることができたのです。
やがて日本支社全体の経営管理やアジアHQの予算管理の仕事も任された後、最初の転職をしたのですが、この時のテーマは「東京に行く」でした。兵庫県神戸市で生まれ育ち、大学も同志社で就職先も神戸のP&Gだった私は、関西にずっと住んでいたのですが、いつかは東京に出て働きたい、という希望を持っていました。
そんな時、業績を飛躍的に伸ばしていた日本マクドナルドからお声をかけていただき、フランチャイズ事業部門の財務部長となりました。この時も、数字の実績管理だけが任務ではなく、日本市場におけるフランチャイズ店の比率を一気に引き上げる、というテーマが最大のミッションでした。3年間でこのテーマの前半を達成した後、2度目の転職先に選んだのがレノボ・ジャパンでした。
「外資系企業の日本子会社でファイナンスのヘッドを任されたい」という希望は、ずっと膨らんでいました。そして、レノボからのCFOとしてのお招きにより、その希望をついに叶えることができました。約4年間の在籍中にいろいろな経験をさせていただき、とても充実していました。そんな中、3度目の転職を決意した背景にはいろいろな要素がありました。
1つは任せてもらえる裁量の部分。食品の領域は、グローバル企業ではあっても子会社にかなりの裁量が委ねられます。人が口にする物を生産して販売する以上、ローカルでの商品開発・製造をはじめとする経営の比重は当然高まります。同じ外資系企業の日本子会社でCFOを務めるならば、やはり裁量権の大きい場で活躍してみたい。そういう思いとケロッグからのお誘いとがフィットしたわけです。
もう1つは日本におけるシリアル食品市場がここへきて再び急成長していること。さらにもう1つは、そうした市場の動きの中で、以前P&Gで一緒に働いていた井上ゆかり社長が新社長に就任しており、「業績を倍にしましょう」と言ってくれたこと。以上のすべての要素が私にとって魅力となり、日本ケロッグへ入社することを決めました。
日本のシリアル食品市場はケロッグが育ててきたと言っても過言ではありませんが、今、再びその市場が大きく膨らんでいますし、その動きの中でライバル企業との競争も激化しています。ですから、井上社長が言う「業績を倍に」というのも実現可能な数字です。
これほどダイナミックな目標があって、経営トップが一緒に実現しようと言ってくれているのですから、私としても非常にやりがいを感じています。私の役割はCFOという経営陣の1人として日本ケロッグを飛躍的に成長させることなのです。家の近くの公立校に通っていて、優等生でした。中学校では学級委員長や生徒会副会長などをしていました。当時の公立中学校では、たいてい学級委員長は男の子、副委員長が女の子というのがお決まりだったようですけれども、なぜか私は委員長になってしまいました。
得票が多かったからそうなったのですが、別に「男の子には負けないわよ」と必死になったわけではありません(笑)。弟がいたこともあり、家ではプラモデルを作ったり、漫画やアニメに夢中になっていました。県立高校に入学してからは美術部で油絵を描いていました。でも、芸術って個性が大事ですよね。私の場合、見たままを描くのは得意でしたが、思い切り個性のある絵が描けなかったので、3年生で才能に見切りをつけました。一方でユースホステル同好会に所属していたので、長期休みには必ず同好会の友達と旅行に行っていました。
大学でESSに入ったお話は冒頭でもしましたが、とにかく毎日のように英語でディベートやディスカッションをしていました。このサークルの仲間とは今も交流が盛んで、私の大きな糧になっています。就職活動では、特に業種や職種にこだわりは持ちませんでしたが、漠然と製造業の領域に関心を抱いていました。金融業界などのように目に見えないものを扱う仕事よりも、現実味を感じることができそうだったからです。
そうして入社を決めたのが東芝だったわけですが、多くの大手製造業がそうであるように、当時の東芝では新人時代の最初の配属先で、その後のキャリアパスがある程度定まってくるような慣習が浸透していました。私の場合、それが経理部門でした。つまり、経理・財務領域のプロフェッショナルとなる道がこのとき開かれたことになります。
特に自分から望んで就いた職種ではなかったものの、私はこの領域での仕事にやりがいを見出していきました。東芝は非常に事業の裾野が広い企業でしたから、一口に経理・財務業務といっても、実に幅広い経験を積み、学ぶことができたからです。
最初に担当したのは、工場での原価計算の任務でした。電機メーカーの経理マンとしては定番のスタートといえますけれども、ここでの経験から、私は「現場感」の大切さを大いに学びました。生産の最前線では、常に状況が変わります。漫然とデスクに座って計算をしているだけでは、ベストな結果を導き出せません。
生産ラインや設計担当など、関係各所と密接にコミュニケーションをとりながら数字と向き合う姿勢を早くから身につけたことは、その後の私の成長を大いに後押ししてくれました。
その後は、コーポレート側にまわって、カンパニー制の経営管理制度の構築に携わったり、コントローラー的な役割を担ったり、チャレンジ目標の数値設定に携わったり、予算のとりまとめや中期経営計画の策定などにも深く関わっていきました。
事業面でも、いわゆる重電系のものからPCのような製品、あるいはウェブ事業・映画事業にもタッチしていくことができました。これほど広い領域を相手にできたのも、東芝にいたおかげ。「経理・財務は数字だけ見ればいいわけではない。ビジネスモデルを数字に翻訳して、成果につなげていく役割」と捉えることができたのも、現場を重視する東芝に在籍したおかげだと思っています。
そして、自分の力にある程度の自信が持てたのも、ブック・キーパー的な仕事ばかりに終始せず、ビジネスや経営というものを現場感をもって体験したからです。だからこそ、次なるチャレンジを望んで転職しようとするような気持ちになったわけです。
約15年、大企業に所属していた私が選んだ次のフィールドは急成長企業。しかも電機とはまったく関係のない不動産流動化事業のアーバンコーポレイション(退職後、約3年後に民事再生法申請)でした。
ここで、事業の急成長を支えるためのCFO的な使命を担い、資金調達を主体とする任務に携わり、倫理観というものの大切さを学んだ後、ファーストリテイリングに入社し、主にM&Aで参画したグループ企業に対する経営管理やM&AでのDD、更に税最適化などのいい意味での何でも屋的な役割を果たす機会を得ました。
さらに異なる業種、しかも急速にビジネスを伸ばしている場での経験や、買収先の外国人を相手にする経験などをしていくことで、さらに自らの仕事の幅を広げることができたのです。税最適化の件で単身、香港に行き、華僑のしたたかさを体験したのもいい思い出です。
そうして次にお声をかけてくれたのがトランスコスモスでした。グループ企業を拡大中だったこの会社で、当初は複数のグループ子会社の数字を見ていくことが主たるミッションでしたが、徐々に役割を増やしていき、2011年にCFOに就任しました。
入社当初は経営企画部長という肩書きのもと、拡大中だったグループ企業の数々を、経営視点で捉え、トランスコスモスのグループとしての動きを整えつつ、変革や調整を行う役割を果たしていました。入社したのが2008年でしたから、早々にリーマンショックに見舞われ、当社もいろいろと影響を受けました。当然、経理・財務分野でも問題が続出したため、この解決に当たる中で私自身の役割も増えていきました。
東芝で学んだ「ビジネスを数字に翻訳して経営に活かす」姿勢や、前職・前々職で培ったストレス耐性が大いに役立ち、気がつけば、経営管理、経理、財務、法務、総務情報システムなど、次々に担当する分野が広がり、現在に至っています。
現在の仕事を私自身は、経営管理、経理、財務、法務、情報システムというProfessional Service、Process Control、Performance Managementという3つのPを軸に、TranslateとTransformという2つの機能を果たすことにより、transcosmosという会社のProfitを最大化することだと考えています。現実には「言うは易し、行うは難し」で日々、挑戦です。小学生の時分は学年の中でも小柄な子どもだったこともあり、本を読みながら静かにすごすことが多かったと思います。とりわけ、図鑑など理系の本が好きでした。また外出するときには必ず鉛筆と紙を持っていき、よくメモをとっていました。
一方、親と一緒に出かけるときには自分の小遣いの入った財布は持っていかないといったお金にはうるさい子供でした。冒頭でもお話した通り、東芝に入社した際に、アカウンティングやファイナンスの世界で生きていくことが決まりましたから、私自身の希望を云々するまでもなく、ここを自分の専門分野にしていくことになりました。
事業領域の広い会社に長く在籍し、次々に未経験の分野と対面していきましたが、FP&A的な専門性をいったん手に入れると、これがどんな事業や経営局面にも汎用性をもって活用できることに気づきました。だからこそ、2度の転職でまったくの異業種を選択することもできましたし、今も数多くの部署を見ながらCFOの役割を果たすうえでベースとなっています。