Campus Report 2004

岩瀬 大輔 to Harvard Business School(全16回)

MBAホルダーへの道

Vol.12 Planned Happenstance

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僕は学生時代は弁護士になりたいと思っていた。高校3年くらいのときから意識し始め、大学1年の秋には周囲の友人から「そろそろ始めないと間に合わないらしいよ」と言われ、通 信講座で司法試験の勉強を始めた。

今から思えば、コーポレート・ロイヤーが実際にどんな仕事をしているのか、まったく分かっていなかった。それでも弁護士になりたいと思ったのは、(1)定年がなくて一生続けられる職業であること、(2)英語を活かして国際的な仕事ができそう、(3)なんとなくprestigiousでカッコよさそう、その3つの理由だった。

大学2年が終わるまでは塾講師のアルバイトを週3~4回していたので、往復の電車でテープを聴きながら学んだ。途中から予備校に物理的に通 い始め、大学3年時に択一・論文試験と合格することができた。ここまでで合格率3%、勝利に酔いしれ、油断してほとんど準備せずに最後の口述試験に臨んだところ、1割しかいない最終不合格者のなかに入ってしまった。

翌年は再び口述試験だけ受ければよかったので、宙ぶらりんの状態が続いた。伊藤塾で教材を作ったりゼミをやったりしながら、迎えた1997年1月。ボストン・コンサルティングから一通 の手紙が届いた。当時は就職活動シーズンが始まっており、いくつものDMが家に届いていたのだが、「オレは弁護士になるから関係ない」と思っていて、すべて捨てていた。たまたまBCGからの手紙だけ宛名が手書きで書いてあり、手作り感があったので、開けてみることにした。

当時はコンサルティング業界も、BCGも知らなかったけど、空けてみたら掘紘一という人が顔写 真付で挑発的なメッセージを書いていた。「日本の会社では考えられない機会と報酬を約束する。キミも、挑戦してみないか」。春休みの2週間のアルバイトで、給料もたくさん出るとのことだったので、応募してみることにした。応募の問題も、BCGらしく面 白かったことを覚えている。「これから流行ると思うものについて、エッセイを書きなさい」というものだった。コンビニの宅配ビジネスみたいなものについて書いたように記憶している。

行く前は、「オレは弁護士になるつもりなので、就職する気はまったくない。ひやかし、ひやかし」と周囲に公言していた。大学入学以来、ずっと法律漬けだったので、弁護士が世の中で一番いい仕事だと信じて疑わなかった。しかし、2週間をBCGのオフィスで過ごして、自分がまったく知らない世界があることに気がついた。そこではものすごく知的で切れ味鋭く、それでいてユーモア溢れて面 倒見のいい人たちが、「こんなにいい会社はない」と言い切って、活き活きと仕事をしていた。弁護士に会っても「この人すごいな、いいな」と思ったことはなかったが、コンサルタントのなかには、「すごい!」と思わされる人が何人もいた。

インターンが終わった翌日に電話があり、オファーをもらった。ボクは弁護士になるので、と断ろうとすると、「司法修習はいつでも行けるんだろ?2年だけ、うちでやってみなよ」と口説かれた。4年生の秋に口述試験に合格したが、その後、ヨーロッパの帰国子女→東大法→BCG→長島大野(大手法律事務所)と、自分の先を歩いてきたような人と会い、「まずはBCGで修行せよ」と言われ、結局2年だけやってみることにした。

BCGに入った頃は、まだ法曹の道にも未練があったのだが、徐々に自分がやりたいこと、ありたい姿とは違うと気がつき始めた。弁護士以外にも、知的に刺激的で、バリバリ仕事をやっていいお給料がもらえる仕事があることに気がついた。いつからか、弁護士にはまったく興味がなくなった。法律のことは世の中で一番いい弁護士に仕事を頼んで、自分ではもっと大きい仕事をできるようになりたいと考えた。

そこからは、fast trackでBCGのパートナーになれたらいいなと思い始めた。大前研一のように、コンサルタントとして極めて、色々な事業のプロデュースにかかわり、かつ政治経済のアドバイザーなどもできるようになりたいと思っていた。ちょっと色気を出して、パリのビジネススクールINSEADに出願して合格通 知をもらったが、結局行かなかった。

BCGも2年目になるとアナリストとしては仕事もすっかり慣れてきた。そんなさなかにITベンチャーブームが訪れていた。グローバルのBCGオフィスでは、会社を辞めてベンチャーを始める人たちが続出していたが、東京オフィスではカルチャーが保守的だったのか、そういう人はほとんどいなかった。が、そのうちBCG東京を辞めて名もないベンチャーに行った人の会社が上場して、その人の株式持分が何10億だという話がオフィス中で話題になった。その会社は、楽天という会社だった。

当時可愛がってもらった先輩たちと一緒に、何かベンチャーできたらいいねと話すようになった。そして、コンサルティングプロジェクトは要領よく片付けて、色んなアイデアを探して毎日のように、議論するようになった。3人でオフィスを抜け出して、ニューオータニの食堂に行って熱く語りあった。そのときに、「トラネット」という運送業界のベンチャーに出会った。2000年2月からその二人の運送屋兼起業家と会い、彼らの事業を「トラボックス」との名で株式会社化させるよう促した。ボクも200万の出資をして、そこからは毎日のようにトラボックスの仕事も平行してやっていた。

2000年4月、そんなベンチャーづき始めたところで、一緒にやっていた先輩がICGという米系VCファームの東京オフィス立ち上げに引き抜かれ、「一緒に行かないか」と誘われた。その会社はITブームの風雲児で、当時の時価総額は1兆円を越え、投資銀行やコンサルティングファームをやめてジョインする人たちが多くいた。そんなイケイケの会社の東京オフィス立ち上げができるなんて!VCという仕事は、新しい事業を世の中に送り出すのを支援する、とっても素晴らしい仕事だと思った。

当時H&Qアジアパシフィックというベンチャーキャピタルのチーム3人がそのまま引き抜かれ、ボクと先輩の5人で新しいオフィスの立ち上げをやることになった。そのときは、リスクとか考えたことはなかった。「失敗してもいい」と思ったのではなく、おそらく「失敗」というコトバすら浮かばなかったのだろう。ignorance is bliss。あるいは、アタマの片隅で、「いざとなったら弁護士にでもなればいいや」とでも思っていたのだろうか。

ニューオークラで開かれた華やかな立ち上げパーティでは、数100名が参加した。当時は、ICGといえば皆が会いたがってくれた。総合商社の人や銀行の人たちが、ぜひ何か一緒にやりましょうと、向こうから売り込んできてくれた。24歳にして、ノータイのビジネスカジュアルでおじさんたち相手にバンバン仕事をしていた。多くのベンチャー企業も訪れ、彼らのビジネスプランをたくさん読み、少しはベンチャーを見る眼が養われた。

1年後には米国のITバブルが終わり、1兆円だった時価総額も100億近くにまで下がった。海外オフィスは撤退することになり、2001年の夏には東京オフィスを閉じることになった。幸いヘッドハンターから声がかかり、大手PEファームに面 接に呼ばれた。ニューヨークに2回、ロンドンに1回、ビジネスクラスで飛び、優雅な気分を味わった。1年分の給料を退職金としてもらっていたし、失業手当が何ヶ月かは出るので、当分は就職しないでいいやと思い、夏休みは旅行に行き、秋から日仏学院に週4日通 ってみたりもした。

最初は楽しかったのだが、途中から「無職」という肩書きが嫌になって、早く就職したいなーと思い始めた。月1回の職安通 いも、ボクのような立場でも結構つらいのに(←なら早く仕事しろ)、家族がいて家のローンなどがある人はどれだけつらいだろうか、痛感した。経済政策として失業手当の充実は、(ボクのような)モラルハザードを生む反面 、社会における人々の暮らしの安定を保つためにいかに重要か、身を持って知ったわけだ。

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そこからヘッドハンター経由で数社と面接をし、結局リップルウッドへ行くことになった。当時はほとんどまとまなベンチャーは存在せず、日本でVCは無理だ、そう決め付けるようになっていた。むしろ、日本の大企業のなかにあるような成熟した事業、技術、人材について、眠っている豊富なリソースの再配分を助ける、バイアウトの仕事がやりがいがあると思うようになった。

リップルウッドに入った2001年12月、少し前に日経ビジネスが「ハゲタカ、それとも救世主?」とリップルに好意的な記事を書き始めていたものの、世間の風当たりはまだ冷たかった。それが、辞める2004年夏くらいまでの間で、どれほど変わったことか。

PEの仕事は、これまでやってきたなかでもダントツで面白い、ビジネスパーソンとしての総合力を試される仕事だと思った。戦略コンサルタントの仕事もやるし、投資銀行のような仕事もたくさんやる。ビジネスも法律もファイナンスも、会計も税務も分かった上で、交渉もガンガンやるし、企業の人間くさいマネジメントにも関わっていかなければならない。27歳にして、投資先の一部上場企業の社外役員にも就任した。当然、報酬のアップサイドもすごいし、なにせ買収先企業や、世の中へ与えるインパクトを手ごたえとして感じることができる。こんなにいい仕事はないと思うようになった。リップルウッドの創業者であるティム・コリンズにも可愛がられるようになり、いつかは彼のように世の中に大きなインパクトを与える仕事をやるようになりたい、そう思うようになった。

MBAにはちょろちょろと出願していたこともあったが、「受かったら行こう」という程度のもので、まったく本腰が入っていなかった。MBAがなくても仕事はできるようになっていたし、2年間休むことの機会コストがものすごく大きくなりつつあった。「もうMBA行くことはないだろうな」、そう決め付けて、途中からまったく考えてもいなかった。

しかし、2003年の夏、尊敬していたリップルウッドの同僚が、HBSに行くことになった。ボクよりも1歳年上の彼の判断は、ボクの意思決定に大きな影響を与えた。「短期での損得勘定は分かるが、人生はマラソンのような長期戦。長期的にみれば、絶対に行った方が自分の人生が豊かになる」。彼に諭され、考えるようになった。HBSはtransformational experienceであると、しきりに学校から言われるが、僕は本当にここに来て、世界観が変わったし、人生変わったと感じている。その同僚には、感謝してもしきれない。

HBSに来た当初は、KKRやらBlackstoneやら、こちらの大手PEファームでやってみたい、そう思っていた。松井やイチローが大リーグを目指したように。しかし、色々と調べていると、大手PEファームのビジネスも徐々に寡占化が進み、組織が大きくなるに連れ硬直化しており、若手にとっては必ずしも魅力的な職場ではない、ということが分かった。今から1年生の兵隊として、毎晩朝方まで仕事するのもちょっとつらいしなぁ。それに、そもそもこういう会社は年に1-2人しか採用しておらず、HBS900名のなかから、何の特徴もなしにそのなかに入るのは至難の技だということに気がついた。

そんなことを知る頃に、ヘッジファンドについて興味がわいてきた。聞くと、最近のPEファームの若手の多くがヘッジファンドに移籍しているという。オレは純粋に企業に投資したいんだ、PE案件の面 倒なプロセスを省略して、バンバン投資ができる仕事をやりたい、彼らの言い分はそういうものだった。また、世間ではヘッジファンドが徐々にPEに近い買収案件を進めており、大手PEファームもヘッジファンド業務へ進出が始まり、両者の垣根が崩れてき始めたことが騒がれていた。

そんなときに、大手ヘッジファンド2社から声がかかった。日本で投資をやっていきたいので、日本人を探しているとのこと。ボクは海外で仕事をしたいと思ったのだが、入口として「日本カード」を使うのもやむを得ないと思った。

夏休みに名門ヘッジファンドのNYオフィスで働き、「本場」ウォールストリートを経験することができた。なんだ、やっていること意外と大したことないな、これならオレでもできる、そう思う反面 、でもやっぱりこれだったらアメリカ人と勝負しない方がいいな、そう思うようにもなった。「アメリカにチャレンジしたい」と思っていた自分は、どこか無意識のうちに米国>日本という上下の関係を描いていたようだが、アメリカもヨーロッパも日本の間に優劣はなく、自分が一番自分らしさを発揮できて働ける場にいた方がいい、そう思うようになり、卒業後は日本関係の仕事をしていきたい、そう思うようになった。

他方で、頻繁にトレードする投資スタイルのヘッジファンドは自分に向いていないな、そう思うようになった。提示されたパッケージは相当魅力的だし、エキサイティングな機会のようにも思えたのだが、仕事の内容やワークスタイル、自分の長期的なゴールややりがいなど、すべてがぴったり合わない仕事を受けるべきではないな、そう思うようなり、結局サマーインターンをやった会社からのオファーは、断ることになった。

長々と書いてきたが、これがボクの今までのキャリアの変遷。「岩瀬は飽きっぽいからなぁ」、BCGの先輩はそう評されたりもしたが、ボクが歩んできた道、持っているキャリア観に近い記事を発見した。このキャリアインクの荒井社長にご紹介頂いたのだが、小杉さんという人事コンサルタントが書かれていた、スタンフォードの教授による Career Happenstance (計画された偶然性理論) という理論。以下、引用する:


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ところで、ビジョンが思い付かない人もいるかと思うのですが、そういう人に福音になる考え方があります。従来は自分の天職を探すのがキャリアの理論の主流で、どこに錨を降ろすかを探す「キャリア・アンカー理論」が一般 的な考え方でした。ところが、最近はプランドハプンスタンス(計画された偶然性理論)という考え方が出てきました。これはどういうことかというと、「キャリアは偶然の積み重ねで予期せぬ 出来事でできる。だから、予期せぬ出来事をいかにチャンスに結び付けるかが大事。ゴールは生涯に渡って学習する、あるいは毎日をエンジョイすることで、キャリアの意志決定をすることではない。そして必要ならチャンスを作り出す行動をする」ということで、スタンフォード大学のジョン・クランボルツ教授が提唱しています。

その行動は5つあって、1つは自分の好奇心をとどめずとことん突き詰める、あるいは自分が身に付けたいスキルが伸ばせる仕事をやること。次に持続する、つまり諦めずにやり続け、学び取ること。さらに楽観すること。そして、リスクテイクし、積極的にミスを冒せということ。最後に柔軟であり、キャリアを決めつけず、それはあくまで偶発的事象の結果 と考えるということです。つまり、ビジョンが思い浮かばない人は、何かのビジョンに向けて意志決定するのではなく、取りあえず行動を変えてチャンスを作り出せ、ということなのです。

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自分が本当にやりたいことは何か、分かっていない人がほとんどだと思うし、仮に分かったつもりでいても、その考えが変わることは大いにある。それは決して悪いことではないし、本当の「私の天職」なるものは存在しないのかも知れない。むしろ、その過程自体を自分が楽しむことができ、自分が確実に成長していけるものにできるよう、そのときどきの偶然に対して柔軟に対応し、チャンスをつかむことが大切なのではないか。

ボクは色々な経験をしてきたが、その時々で「今自分がやっていることが一番いい仕事だ」と信じ、毎日楽しく、学びながら仕事をすることができた。どこか決まったゴールに辿りつくためではなく、そのプロセス自体と楽しみながら成長していくこと、それ自体がキャリアのゴールであるべき、というわけだ。

この記事を読んで、あぁ、自分が取ってきた道のりも必ずしも間違っていなかったのだな、と自分なりに信じていたことを権威に後押しされた気がしてほっとした。10月末はリクルーティングウィークということで授業が一週間休みになっているが、こんなことを考えてみた。

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