Campus Report 2004

竹中 重人 to Tuck School of Business at Dartmouth(全20回)

MBAホルダーへの道

Vol.16 退職

転職のご相談・お問い合わせ

経験豊富な
エージェントに転職相談(無料)してみませんか?

1分で完了無料登録・転職相談

冬学期の授業が全て終了し、留学生活もいよいよ残りは春学期の9週間を残すのみとなった。よっぽどのヘマをしない限り、夏にはMBAを取得して帰国することになるのではないかと思う。また2月末日を以て、留学のために休職していたテキサス・インスツルメンツ(TI)を退職した。留学当初から辞めることも視野には入っていたが、いざとなると愛着のある会社を退職するのは本当に寂しいものだった。卒業後に戦略系コンサルティングファームに入社する決断をしたため、年明けに正式に辞意を伝えていた。

思えば遠くに来たものだ、とつくづく思う。もうすぐ海外の大学院を卒業し、さらに畏れ多くも企業の経営戦略のコンサルティングに携わる事になるなど、数年前まで夢にも思わなかった。ここ数日、ぼんやりとTI入社の頃の自分を振り返っている。今回は、少し昔話を書きたいと思う。

ダメ新入社員時代

東京理科大学への入学は不本意なものだった。高校時代の成績は良かったが、受験勉強を全くせずに遊び呆けていたため、本番の入試で次々に大コケした結果 だった。大学時代も勉強に身が入らず、熱心にやったのは自転車ツーリングくらいであった。

大学卒業時の就職活動は外資系半導体メーカーに絞っていた。第一志望だったTIの面 接で「得意な科目は何ですか?」という質問に対して「私は勉強は全く出来ません」などと堂々と答えていたので、ある意味インパクトのある学生だったかもしれない。面 接官は苦笑して「そうは言っても、何かあるでしょう」と助け船を出してくれた。こんな調子だったが、当時非常に倍率の高かったTIから奇跡的に内定をもらった。ちなみに内定式で受けたTOEICは460点。思いがけず400点を超えて喜んでいたが、今から見れば悲しいほどに低い。仕事に対する夢も情熱も全くなく、本当に、何の取り柄もない学生だったと思う。

1年目の配属先は大分県にある工場だった。同期三十数名の中からたった二人の大分配属者の一人となり、自分としてはかなり不本意な配属だった。大分での仕事はICの評価と出荷テスト・プログラムを作ること。配属先の部署の人は、約半分が大卒、もう半分が高専卒の人たちで、最初に習ったのはハンダゴテの使い方だった。同期の大半が東京のオフィスでかっこよく活躍しているかと思うと、大分の片田舎で水色の作業着を着ながらハンダゴテを握る毎日に、とても焦りを感じた。

しかし、この大分の職場は素晴らしい場所だった。キッチリとしたプロセスの中で、確かな技術知識を持った人たちが熱心に仕事をしていた。今思い返すと非常にモラルの高い完成された組織だったと思う。大学で勉強した内容が仕事に直結していて、学生時代に真面 目に勉強しなかったのをとても悔いた。彼らのような一人前の技術者になるまで何年かかるのか、想像も付かなかった。

厳しくて、でも温かい直属上司にも恵まれた。ある時テスト・プログラムを更新するのに必要な簡単な書類を書いて提出したところ、「内容が不明確」と言われて書き直しを命じられた。何度書いても書き直しを命じられ、たしか承認をもらうまでに5回以上書き直しをさせられたと思う。またある時、どうしても新しいプログラムが動かずに苦しんでいると、上司はずっと残って僕が仕事を終えるのを見守ってくれた。結局この日は深夜2時頃に一緒に会社を出た。彼自身がやれば数十分で終わる仕事を、僕が何時間もかけて終えるのを辛抱強く付き合ってくれるのを見て、早くちゃんと仕事が出来るようになりたいと思った。

個人的な事情もあり、直属上司に無理を言って2年目に東京の新製品の企画を担当する部署に異動させてもらうことになった。しかし、憧れていた東京の職場は想像とは随分違うものだった。職場に蓄積された知識が極端に少なく、仕事のプロセスは混沌としていた。職場のモラルも高くはなく、殆ど何の仕事をしているのかわからないような人もいた。

仕事の成功と閉塞感

新しい部署は発足したばかりで技術的な事がわかる人が全く不足していたため、仕事に慣れるにつれ加速度的に重要な仕事が回ってくるようになった。僕は前の職場の人たちに顔向け出来るよう、必死で仕事をこなした。生まれて初めて、本当に真剣に物事に取り組んだ時だったと思う。まだ無能だったが、取り敢えずひたすら一生懸命だったので、みな僕の話を聞いてくれたし、助けてくれるようになった。中でも大分の元の部署の人たちが一番のサポーターで、たくさんのワガママを聞いてくれた。

今から思えば殆ど単なる幸運だったけれど、僕の手掛けたいくつかの製品は大ヒットした。年に数千万個もICが売れ、ワールドワイドの事業部内における売上リストの上位 には僕の製品が並んだ。TIが有力企業を買収したことも重なって、担当していた製品群の日本におけるTIのシェアはナンバーワンとなり、僕は好業績に対する特別 ボーナスを何回ももらった。海外でも名前が売れて、僕の名前がマネージャとしてワールドワイドの組織図に記載される事もあった(本当はマネージャではなかったので間違いだったが、認められたようでとても嬉しかった)。

大成功をして周囲の期待はものすごく膨らんで、さらにぶっちぎりのナンバーワンになれとハッパをかけられた。けれど、能力に不相応な成功だったので、その先何をすれば良いのか確信を持てるほどのアイデアはなかった。また、期待が膨らむにつれてダラスの本社と日本の組織との思惑のズレも表面 化し、僕を混乱させた。

2000年のハイテク・バブル崩壊の影響で会社はその後数年にわたってリストラを実行し、僕がお世話になった人が何人も会社を辞めたり、不本意な転勤を余儀なくされた。そうした影響もあってか会社全体として新製品開発の生産性は明らかに低下していた。社内政治のかけひきなどが見えるようにもなってきて、幻滅する事もあった。人事部が「新人事制度」として導入した成果 主義は明らかな出来損ないで、僕のモチベーションを著しく下げた(個人的には新人事制度で得をした。夏冬のボーナスは大幅に増えたし、史上最年少を大幅に更新するような昇進話も持ち上がった) 。

こうして、目下の仕事の好調さとは裏腹に、入社から5年が経とうとしていた2002年頃の僕は強い閉塞感の中にいた。その後は以前このレポートにも書いた通 り、上司にMBA留学計画をカミングアウトして、仕事と受験勉強の両立を2年近く続けた。夜12時頃まで仕事をし、朝3時頃まで受験勉強をするような日も多かった。そして2003年12月にTuckに合格し、2004年の7月からTIを休職していた。

******************************

僕はTIにおいて有意義な時間を過ごし、色々な面で成長する事が出来たと思う。少なくとも仕事で出した業績には非常に誇りを持っている。MBA受験で出願した殆どの学校に合格し、厳しいと言われるTuckのコア・カリキュラムを楽勝でこなしたのも密かな自慢で、ある種の能力の証明だと思っている。しかしながら、一部のTuckの同級生との間には大きな能力の差があることも、残念ながら日々実感している。

特に最近思うのは、良い場所で意味のある努力をすることの大切さだ。僕はTIという良い職場に巡りあって、ここで割と努力してきたと思う。Tuckも、素晴らしい場所だ。まだまだ自分に足りないものはたくさんあるので、僕はこれからその足りないものを一つ一つ埋めていきたい。それには、コンサルティングは格好の職場と思えた。そしていつかは、かつての輝きを失った日本のハイテク業界に再び活力を与えるような、そんな仕事がしてみたいと思う。

初めての方へ 私たちキャリアインキュベーションについて

転職のご相談・お問い合わせ 業界の専門分野で10年以上の
経験を持つエージェントに
転職相談(無料)
してみませんか?

あなたのキャリアに関する相談相手として、現在の状況に耳を傾け、これまでのご経験や今後のポテンシャル、
将来の展望を整理し、よりふさわしいキャリアをご提案します。

  • 転職成功者の90%以上が
    対応に「満足」と回答

    キャリアと並走して
    長期的・継続的にサポートする活動に
    多くの方から賛同いただいています。

  • 転職ありきではなく戦略的に
    状況を見極めて案件を紹介

    今後のキャリアの可能性を
    探りたい方にも希望や適性を
    踏まえて本音でアドバイスします。

  • 転職決定者の70%以上が
    年収1,000万円以上を獲得

    圧倒的な求人情報量があり
    ご相談いただく多くの方が転職前よりも
    好待遇で就業されています。

1分で完了 無料登録・転職相談

現在約6000人以上が登録中!
転職活動にすぐに役立つ
メールマガジン(無料)もございます。

メールマガジン登録(無料)