イノベーションのジレンマ
これまで読んだビジネス書の中で最も好きな本を聞かれたら、真っ先に答えるのがハーバード・ビジネススクールの教授であるクレイトン・クリステンセンの著書「イノベーションのジレンマ」だ。この本は優れた経営を行う企業が、皮肉なことにその優れた経営故に失敗を招くメカニズムについて解説しており、優良企業を飲み込む「破壊的イノベーション」と名付けられた革新的な技術あるいはサービスの与える影響について述べられている。
この本の凄さは、誰もが目にしていたが、しかし誰も認識出来なかったメカニズムを「発見」した事ではないかと思う。物体が何故下に落ちるのか、誰もが目にしていた現象をニュートンが解き明かしたように、クリステンセンは破壊的イノベーションというメカニズムを見事に解き明かした。
しかしながら惜しむらくは、この本の提案する破壊的イノベーションに対抗する方法が十分に実用的とは言い難かった点である。基本的な処方箋としては、破壊的イノベーションを引き起こす「破壊的技術」を自社内で育てるためには、その技術の為に独立した組織を発足させる「社内起業」を実施すべしと説いている。この社内起業についての解説も色々あるのだが、破壊的イノベーションのメカニズムを解き明かしたのに比べると切れ味的にやや物足りないものであった。続編も2冊あるが、実行レベルへの落とし込みという点ではややスッキリしないものを感じていた。
Mr.ヒーローの物語
今学期履修しているEntrepreneurship within Established Organizationという授業が、このもやもやを見事に消し去ってくれた。非常に良い授業なので、今回少し紹介したい。この授業は破壊的イノベーションに対抗する方法を直接的に取り扱っているわけではないが、成功する社内起業に関してクリステンセンが踏み込んでるよりもより実践的な処方箋を示している。
この授業の初回、最初に教授はある架空のストーリーを静かに語り始めた。
「世界的大企業であるマンモス・コーポレーション。長年成長を遂げてきたこのエクセレント・カンパニーの業績が、今年ついにダウンした。本業の不信によるもので、このままでは長期的に凋落の危険性があることが明らかになった。これに対するマネジメントの動きは素早かった。社内に警報を発し、新しいアイデアを広く求めた。運の良いことに一人の若手社員が革新的なアイデアを提案した。マネジメントは即座に独立したプロジェクトチームを発足し、提案者の若手社員・Mr.ヒーローをリーダーに抜擢した。」
「Mr.ヒーローはチームを指揮して、このアイデアの事業化を推進した。しかしプロジェクトは困難を極めた。あれほど素晴らしいと思えたマンモスの全てが、Mr.ヒーローの邪魔をする。新しい顧客層を開拓することにも、既存の業務プロセスと全く違うアプローチを取ることにも、部下も含めた社内の人々の反発は凄まじかった。Mr.ヒーローは有形無形の圧力で既存のやり方に従う事を強いられた。日々のプレッシャーで、ベッドの上で汗びっしょりになる夜が続いた。しかしMr.ヒーローは負けなかった。粘り強く社内を説得し、数年後ついにこの新事業を大成功に導いた。さらに数年後、Mr.ヒーローはマンモスのCEOに就任した」
「この架空のストーリーは以上だ。君たちはどう思うかね? 確かに我らがMr.ヒーローは素晴らしい。マネジメントも素早いアクションをとった。しかし私の見解では、マンモスは正しい対応を取ったとは言えない。何故か? 社内に新規事業を立ち上げる際の組織の力学に反しているからだ。マンモスが成功したのは結果 論に過ぎない。君たちがこの授業で学ぶのは、このような状況においてマネジメントとして適切な行動は何かという事だ。この授業では企業の事業戦略については議論しない。それは所与のものとして取り扱う。その代わりこの授業では如何に既存の組織で新事業を育てるかについての、実行の方法を学ぶ」
社内起業と「忘れる、借りる、学ぶ」
この授業の教鞭をとるのはTuckの卒業生であり、元アメリカ海軍の潜水艦乗りという異例の経歴の持ち主であるTrimble教授だ。若手ながら素晴らしいケースさばきで、そして軍人出身らしく結構厳しい。彼はTuck期待のホープのようで、2005年12月には看板教授であるVijay Govindarajan(通称VG)と共著で本を出版している。ちなみにこの共著者であるVGはTimes誌の選ぶ「世界のビジネス・グル50」であり、Forbes誌の選ぶ「戦略論のベスト・プロフェッサー Top5」という大物教授である。
この授業で扱うフレームワークはたった一つ。「社内起業を成功させるには"Forget"、"Borrow"、"Learn"という3つの行動を注意深く実行しなければいけない」というものだ。Forgetとは、本体での成功体験や業務プロセスを選択的に忘れること。このForgetのプロセスをしっかり整備しないと、これまでのやり方に固執し、新しい顧客・新しいマーケットに対する正しいアクションが取れなくなる。Borrowは文字通 り本体からリソースを借りること。多くは資金であったり、ブランド名であったりする。借りるべき資産・借りるべきでない資産というものが存在する。そしてLearnとは、新事業がターゲットとする市場について学ぶことだ。時間が経過するにつれてしっかりと学び、事業の先行きに対する不確定要素を減らしていかなければならない。
以上のことから社内起業を成功させるためには、何を忘れ、何を借り、そして何を学ぶかを明確に意識し、それらを実行出来る組織を作るべきであるという事だ。非常にシンプルである。
だが、中身が結構面白い。例えば本体から「借りるべきでないもの」としてTrimbleが挙げるのは、人事部、財務部、情報システム部などのバックオフィス部門だ。これらの部署は新規事業部内に独立して持つべきであると言う。組織のインフラとして最も共有しやいこれらの部署を、立ち上がったばかりの小さな事業部が「借りるべきでない」とする彼の意見は、直感的には理解しがたい。彼がこの事をExecutive向けのプログラムで教えると、生徒であるExecutive達は「憤怒の表情で」反発するらしい。フルタイムMBAの学生の反発はそれほどではないのと対照的だそうだ。日々コスト削減に知恵を絞っているExecutiveたちがこの意見に怒るのも無理はない。
Trimbleの説明はこうだ。「組織のDNAに対しては、実はバックオフィスが強い影響力を持っている。一つの例としては、人材採用際しての人事部の影響などが挙げられる。バックオフィスは社内の日々の業務プロセスをコントロールしているが、顧客の変化やビジネスモデルの変化に鈍感だ。そのためもしバックオフィスを"Borrow"してしまうと、多くの場合で社内起業に必要な"Forget"にとっての足かせとなってしまう。わずか数%のコスト削減のために、このような足かせを持ってしまうのは非常に好ましくなく、また致命的である場合も多い」
TrimbleとVGは社内起業に関する研究のために数十の実例研究を行ったそうだ。この授業で扱うケースも全て二人の著作による。今後数年間はこれまでの研究成果 をもとに企業向けのコンサルティングにフォーカスし、事例が蓄積したところでまた新しい研究成果 を発表する予定のようだ。これまでの彼らの研究成果と提案はTen Rules for Strategic Innovatorsという本にまとめられているので、興味のある方には是非ご一読頂きたい。但し、今のところ英語版のみ・・・。