#21年ぶりの教習所
大型二輪の免許をとるべく教習所に通った。普通自動車免許が18才、普通二輪免許(400cc未満)が20才の時だから、なんと22年ぶりの教習所通いだ。
法律上、「限定解除」免許が「大型二輪」免許に変わったことくらいは知っていたが、本当に驚きの連続だった。
初っぱなの適性検査から新鮮である。
2月という時節柄、周りは100人の高校3年生。たった4人だけ「大人」が混じっている。大型車の人、大型二輪の人。そこへ年若い試験官はビシビシと指示を出す。
「ハイ、ペンを置く!」「時間オーバーすると、即、再検査!」「ハイ、次スタート!」「遅い!」
使われているのは『警察庁方式運転適性検査K型』であるが、小さな箱内に△をひたすら書くとか、3桁の足し算引き算とか、細かい作業・計算・判断を超ハイスピードでやらせるものだ。満点のレベルは異様に高く、大抵、半分も出来ない。
久々の敗北感である。
それよりも、試験官の指示口調に軽い反発を覚えたりしているところが年寄りの証拠。高校生扱いされたくない、なんて思ってた。
しかし、教習自体はそんなもんじゃ済まなかった。
実技の教習が始まって、次の日にはもう出社拒否直前。インストラクターたちは丁寧に、かつ的確にやるべきことや出来ていないことを指摘してくる。
出来ればいいが、出来ないことだらけ。これは、ここ15年間バイクに乗っていなかったからではない。そもそもの運転技術や安全確認習慣の問題だ。
ああいやだ。出来ないことをやりになんて行きたくない。気分悪い。お腹痛い・・・
インストラクターは後ろに乗せてくれたり、視線や姿勢、アクセルを開けるタイミングなどを「教えて」くれたりする。でも結局こういったものは自分で「掴む」ことが出来ないとダメだ。体が覚えて瞬時に使うことが出来ないと意味がない。
そのためには、繰り返すことだ。出来るまで何度でも。そして出来たらまた、繰り返す。覚えるまで何度でも。
教習所のバイクは転けさせてもタダ、である。大失敗が出来るという意味ではこれほど理想的な場所はない。実際、二度、コケさせてガソリンを噴き出させたりした。
ただ問題は、この「繰り返し回数」が限られることだ。場所的、資金的、時間的に。
アメリカでもないのだから、とってもいない免許の車種を路上で走らせるわけにもいかない。教習所での教習課程を増やせばお金も時間も掛かる。
いわゆる「ソツケン」、卒業検定試験まで、技能教習はたった12時間しかない(普通二輪免許保持者の場合)。
#新しいスキルの獲得法
「経験」が限られる中で、効率的に新しいスキルを習得するにはどうすればよいのだろう。たった数時間の実習で大型二輪のバランス感覚(特に8の字やスラローム)を身に付けるには、どうすればいいのだろうか。
『イメージトレーニング』がその解かもしれない。
うまく出来ているインストラクターや仲間の姿を目に焼き付け、頭の中で自分に置き換え、その感覚を自分に覚えさせる。
体重移動でバイクを深く倒す。同時にハンドルを切って大きく曲る。曲がるときの遠心力と反発を生かしてバイクを立て、少し遅れてアクセルを開け加速しバイクの姿勢を変えていく。アクセルは直ちに戻し、エンジンブレーキを利かせながら体重移動でバイクを反対に倒し込む。
この連続だ。
アクセルとハンドルと体重移動の精緻なタイミングでの繰り返しを5回。うまく行けばこれだけで済む。道路からの反発を生かして次のターンに入る感覚は、スキーでのパラレルターンと酷似する。
少なくともスキーは大得意。何も難しいことではない。
そう自分に言い聞かせながら、目を瞑って頭の中で繰り返す。
オーバースピードなら右足のフットブレーキで後輪に軽くブレーキ。間違っても右手の前輪ブレーキに触れてはいけない。最初の入りを早過ぎちゃいけない。入りは慎重に。そして兎に角、先を先を見ること。今のコーナーでなく、次のコーナーを。更にはコース全体を・・・
最初はぎこちない。多くのことを同時に処理できない、頭の中で思い浮かべられない。しかし、繰り返すことで手足の連携、視線の連携が、頭の中で出来てくる。
よし、これならいける(かもしれない)。
#大型二輪免許をとった訳
多少のミスはあったものの卒検は無事一回で合格し、翌日には鮫洲運転免許試験場で大型二輪免許を手にした。教習所に通い始めて10日目のことだ。
でもなぜに今頃バイクだったのか。しかも大型二輪。
それはひとえにそのパワー感に尽きる。
現在通常の手段で、国内で入手・運転できるバイクの最高峰はなんだろう。パワーで言えばホンダ CBR 1000RRの逆輸入版などは172馬力を誇る。ヤマハのYZF-R1が180馬力、DUCATIの1098が162馬力、MV AGUSTAのF4-1000Rが174馬力。
これらスーパースポーツ車は、徹底した軽量化も図られている。鉄をアルミに、アルミをマグネシウムにすることで、1000cc車でありながら車重はわずか180kg弱。結果、パワーウエイトレシオは1kg/馬力前後。現役F1マシンに匹敵する数値となる。
つまり、普通車に換算すればベンツのSクラスに1900馬力、軽のアルトに750馬力のエンジンを積んでいるようなモノ。
これこそ公道300km/時オーバーの世界だ。理論上、時速100kmの車に後ろから時速300kmで追突することは、時速100kmの車同士が正面衝突するのと同じ衝撃になる。
もちろんそんな狂気のスピードを出す気合いも技術もないが、そういう圧倒的パワー感にはやはり憧れる。
ただ今回、教習所でインストラクターが口々に言っていたのは「大人の余裕」もしくは「大型二輪の品格」とも言える心構えだった。全くその通り。これは心の問題だ。
実用上は全く不必要なパワーをなぜ持つのか。不必要なばかりでなく、不安定で危険な二輪でなぜそんな悪魔的パワーを両足の間に抱えるのか。
#魔法は使わないことに意味がある
その魔力を御すること自体が価値なのだ。「魔力」は「ドラえもんのポケット」と同じで、使うことにではなく、使わずにいることに意味がある。それに頼らないことこそが難しい。
いざとなったらそれをちゃんと使える技術も習得しよう。でなければただの骨董品コレクターだ。
でも使える自信がありながら、不要なときには絶対に使わずに済ませる。魔力に心奪われず、自らを制御する。
そういったことをきっと、これから求められていくのだろう。
パワーへの憧れで始めた教習所通い。10日の間に色々考えさせられた。
出来ないことにぶつかると、自分が見える。自分の精神(と、お腹)の弱さ、学びの方法、パワーの本質・・・
未知のモノへの挑戦=「チャレンジ」の価値はそういったところにこそあるのかもしれない。
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