#天才ミケランジェロの天井画『創世記』
1992年、システィーナ礼拝堂に行った。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、向かって右隣の建物だ。
ここにはミケランジェロの『最後の審判』がある。
彼が晩年66才の時に5年を掛けて描き上げた大作だ。そこには再臨したイエスを中心に、400体以上の神・人間が描かれる・・・でも、私は見ていない。
ちょうど日本テレビが資金援助した大修理の真っ最中で、私が見たその壁には、保護シートと実物の数分の一のレプリカが掛かるのみ。
故に私にとってのシスティーナ礼拝堂は天井画の『創世記』に限られる。
これはその20年前、彼が壮年の時にやはり4年を掛けて描いた超大作だ。弟子の仕事ぶりが気に入らずクビにして、天井画を一人で描き続けたために完成時にはクビが曲がってしまっていた・・・というのは有名な話だが、この天井画も凄いの一言に尽きる出来映えだ。
礼拝堂に入ると、多くの人たちが床に寝転がっている。始めビックリするが、すぐに納得する。この『創世記』の迫力をフルに味わおうと思えばそれがベストだ。もちろん自分もそれに見習ってゴロリ。10数分をそうやって過ごす。
視界一杯、いや視界を超えて拡がる、巨大な天井画。旧約聖書『創世記』の9場面、天地創造、楽園追放、大洪水・・・が頭上10mから迫りくる。
「彫刻家」ミケランジェロに無理して描かせるだけのテーマでありキャンバスだ。(当時、彫刻家を自認するミケランジェロは、ローマ教皇ユリウス2世からの作画要請を一旦は拒絶した)
#我らが貴婦人の『薔薇窓』
パリ中心のシテ島にそびえる大聖堂がノートルダム寺院。Notre-Dame=私たちの貴婦人、とは聖母マリアのことを指し、大きな聖堂には良く付けられる名前だ。ランス、シャルトル、アミアン、ストラスブールにあるノートルダム大聖堂はパリのそれと同じく全て「世界遺産」でもある。
パリ、ノートルダム大聖堂に一歩足を踏み入れると、その暗さとひんやりとした冷気に驚かされる。数分たってようやくその暗さに目が慣れてくる頃、急に眩しくその存在を主張してくるモノ、それが高所にある数々のステンドグラス窓だ。
鉛の枠(リム)で着色ガラスを組み合わせていくステンドグラスは中世ヨーロッパ、特にフランスで発達した。建築技術の向上と共に、広く高い聖堂が造られるようになり、その大空間を演出する技術が求められた。そして「光」を操るステンドグラス窓が、そこでの装飾の主役となっていったのだ。
最も有名なそれはパリ南西90kmのシャルトル大聖堂にある『美しきガラス窓の聖母』『薔薇のステンドグラス』たちだ。
パリ、ノートルダム大聖堂の『薔薇窓』など(薔薇窓/その他)たちもそれらに劣らない。
堂内の暗さは、ステンドグラスの光を眩しく輝かせ、その眩しさは周りの夾雑物を暗さの中に押し込める。そしてステンドグラスの余りの精緻さ、そこからの光の美しさは、無神論者にさえ思わず神の存在を信じさせるが如き力を放つ。
しかしそれを創ったのはヒトだ。自らが感じた「神の力」を他の人間にも伝えたいと願う、強い意志こそがこのような超絶的な闇と光の作品を生み出したのだ。
大聖堂の大空間建築とステンドグラスは相携えて、ヒトを闇に誘い、そして光明を与える。
#襖絵という名の総合工芸
久しぶりに京都・三十三間堂に行った。堪能した。
次の予定まで時間があったので、何の気無しにお隣の京都国立博物館を訪れた。初めてのことだ。
たまたまやっていた展覧会が「京都御所障壁画」特別展。1855年に造営された今の御所の1000面を超える襖絵・杉戸絵や壁画から、200面を集めたもの。それらはもちろん当代最高の京都絵師たちの手になるものだ。
円山応挙や伊藤若冲らを輩出した18世紀に比べ、印象が薄いと言われる19世紀京都画壇ではあるが、流石に狩野永岳の鳳凰図などは見事だった。保存状態も良いのだろうが、まことに青き蒼であった。
しかし、同時に物足りなさも感じた。
そもそも襖とは何だろう。それは部屋と部屋とを間仕切るために発明された日本独特の建具だ。
もともと日本貴族の住宅は「夏」をむねとした通気性の良い寝殿造り。つまり仕切るものの何もないだだっ広い吹き通しだった。そこで創られたのが障子や襖なのだ。可動式であり、取り外しまで出来、意外と断熱性が高く、しかも絵の下地となる画材でもあった。
例えば書院造りの部屋一つを芸術と見れば、襖絵はただの「絵」でなく、部屋や建物全体の完全な一部である。
京都・大徳寺の塔頭、聚光院(じゅこういん)に行けば、狩野永徳の襖絵が楽しめる。その味わいは、美術館にあるものとは比べものになるまい。襖絵はそこにあるべくして描かれたモノ。桃山時代の息吹を感じさせる方丈(1566年創建)に今もなお存在するが故に、その時代の風を強く運んでくる。
ミケランジェロの『創世記』は、システィーナ礼拝堂の天井にあってこそ。
至高のステンドグラス『薔薇窓』は、ノートルダム大聖堂の高く広い暗がりにあってこそ。
狩野永徳の襖絵も、大徳寺 聚光院という名刹にあってこそ。
分解しては決して分からないものもある。あるがままでしか味わえぬ価値がある。
美術館に行き、博物館に足を運び、でも、時々は旅をしよう。そして、「それ」を、そのままに見よう。
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