#20世紀最大・最強・最悪の発明 テレビ
おそらくは電話(1875年にグラハム・ベルが発明)と一二を争うであろう発明が、テレビだ。
電話の場合、事業者が提供するのが「インフラ」だけであり「コンテンツ」は利用者自身のお喋りであるのに比べ、テレビ事業は「コンテンツ」も含めて作り、伝える機能を持っている。
しかもその巨大な産業の大部分が「広告費」という名目で第三者によって賄われ、視聴者は番組という名の「無料コンテンツ」を存分に楽しめる。
しかも、その活用(視聴)において技術や訓練は全く必要なく、対象は老若男女極めて幅広い。
放送されるコンテンツ群は高い質(もしくは刺激)を持ち、人々は人生の時間の何割かをただその視聴に捧げている。一人であろうと家族一緒であろうと、モノを考えることなく、会話を交わすことなく。
1957年、批評家 大宅壮一は看破している。
「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い」(1957年2月2日号 週刊東京)
ただ、ここではテレビをちょっと、誉めてみよう。やはり伊達に年間数兆円が突っ込まれているわけではない。良い番組は、確かにある。
#ようこそ先輩 - 片山右京の限界突破!
テレビ自体は結構見ているけれど、必ず見る、というものはあまりない。
朝夕のニュースと「大改造!劇的ビフォーアフター」(朝日、レギュラー放送は2006年3月で終了)くらいだろうか。
ただ、NHKの「トップランナー」「課外授業 ようこそ先輩」「プロフェッショナル 仕事の流儀」はやっていれば必ず見る。
「ようこそ先輩」は著名人が母校の小学校に戻って子供たち相手に授業を行うというもの。
松井秀喜が小学生に硬球を打たせたり、宇崎竜童が一人一人にラブソングを作らせたり、皆で炉(鑪 たたら)を組んで砂鉄を集めて鉄を作った回もあった。
その中でも2001年放送の片山右京氏の回は凄かった。(ATP賞 優秀賞受賞)
まずはクラス全員を富士スピードウェイに連れて行く。コースを歩かせ、同時に三人ずつ車に乗せて彼の「腕」を見せつける。そして、本番は学校の体育館に作られた富士の模型コース。ここを子供たちに走らせて、そのタイムを計る。それだけ。
1回目。
意外な結果が出る。普段鈍足の子が二位になったり、俊足の子が真ん中くらいだったり。そして彼は皆に言う。
「もっと考えて、自分の体をコントロールして、まだまだ速くなれる」
皆、コースを歩いて下見し、作戦を考え、イメージトレーニングをする。
タイムトライアル、2回目。
なんと全員のタイムが大幅にアップしている。盛り上がる子供たち。「やった、やった」
しかし彼は皆に言い切る。
「まだだ!」 「もう限界って思っているかも知れないけれど、本当の限界はみんなが思っているよりもずーっと先にある」 「集中しろ!集中すればその限界を突破できる!」
彼にハッパを何度もかけられて皆の目の色が変わる。
そして3度目のタイムトライアル。
結果は・・・
今回も全員のタイムが向上する。約四〇名がただ一人の例外もなく。彼・彼女らはきっと一生この瞬間のことを覚えているだろう。
「限界は自分の中にある」 「集中による限界突破!」
#仕事の流儀 - 教えず導く
同じくNHKの「仕事の流儀」も既に30回弱を数える。登場人物は何れも斯界の「超一流プロフェッショナル」だ。(http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/index.html)
「ご神木」を切り倒す決断をする樹木医、敢えて「絶対」直すと言い切る脳神経外科医、イタリア ピニンファリーナ社でカーデザインチームを率いるディレクター。
各人の言葉は、選ばれ鍛え抜かれてきたモノであり、ギリギリ極限の世界での緊張感が伝わる番組だ。
その中でも、第14回 日産自動車テストドライバー 加藤博義氏の回と、第25回 島根の中学英語教師 田尻悟郎氏の回が秀逸だった。
加藤氏は日産自動車のテストドライバー数十人のドンだ。その評価は「神の声」とまで言われるという。
計器に出ない、測定し得ない微妙なズレや難点を彼は自分の感覚でズバリ言い当てる。その感覚は研ぎ澄まされ、速度計無しでもスピードを誤差1キロ以内で言い当てる。
その彼の基本スタンスは「修羅場で笑えなきゃ、プロじゃない」
彼は時速200kmの車を指先だけで運転したり、期限の迫った大問題に直面しても笑顔を見せたり、兎に角、極限的状況の中での余裕を忘れない。
やせ我慢でも余裕を見せることで、自分も相手も何とかなる気がする、前進する気がする。
そんな彼の、部下育成方法は独特だ。
新車に装備するタイヤセットを決定するための評価を若手二人に任せる。
3週間を掛けて二人は徹底的に走り込み、測定し、議論し、また走る。期限ギリギリに彼は現場に行き、黙って自ら試乗する。タイヤセット毎に1時間。
その後、若手たちに彼らとしての結論を言わせる。
「セットAが良いと思います」「理由としては・・・・」
彼は頷く。
「それで良いんじゃないか」
ある意味、徹底的な放置スタイルだ。
加藤氏は言う。
「俺は教えない」
「教えちゃうと、教わろうっていう『クセ』が付いちゃうから」
これは、その通り。受け身的に教わることに慣れてしまった人間は、決してトップには立てない。
どんな職業であれ、トップに立つとは前人未踏の世界に足を踏み込む者になると言うことだ。
そこで必要なのは「教わる力」ではなく「自ら学ぶ力」だ。而してそういった力をどうやって「教える」のか・・・いや「教えずして導く」のか。
#楽しんで学ぶ - 舞台は教室、観客は生徒、演者は先生
中学英語教師 田尻氏の授業スタイルは兎に角楽しい。5分ごとにテーマが変わり、殆どがゲーム感覚で進んでいく。
例えば英語カルタ。
子供たちは耳に全神経を集中させ、微妙な音の違いを聞き分ける。
「walk!」「ハイ!」
「work!」「ハイ!」
ムリに教えようとしても出来ない、自発的な学習がそこにはある。
更に彼は、生徒の一部を「教える」側に引き摺り込む。一般に田舎の公立中学で考えれば、出来る子は授業中ヒマだ。とっても。
口頭での小テストという演目を作り、受かった子を彼は「Teacher」と名付け、バッチを与え、その子たちを教え役、試験官役に任ずる。
Teacherたちも一生懸命クラスの子を教え、教えることの難しさや楽しさを学ぶ。少なくとも、もうヒマではない。
それによって生み出されるのは、実は、田尻氏自身の時間だ。
小テストの演目中、彼は遊軍として一人一人を見て回る。特に躓いている子供たちを重点に。
教えることを生徒に分担させるという、誠に大胆な権限委譲、役割再分担によって可能になる、公立校における個人授業だ。
彼の原点はしかし、強烈な失敗経験にある。
彼は最初に赴任した神戸の学校で、強烈な「叱り型」教育を行い、大失敗をしたのだ。
荒れた学校、落ち着かない授業・・・彼は授業自体よりも生活指導、部活動指導に力を入れ、鬼となって生徒たちに対峙する。
そのしごきが実り、指導した部は県での優勝を勝ち取る。その打ち上げでのこと、満足感を覚えていた彼に、生徒たちはしかし、「恨み」の言葉を投げつけた。
「先生、あのリードされてた時、もうアカンと思ったやろ」「ああ、思った」
「だけど僕らはみんなで言ってたんや。ここで負けたら何のためにここまでイヤな思いをしてきたんか分からん。絶対逆転して先生を見返してやる、って」
恨みの言葉が生徒たちから延々続く間、彼はただうつむき、頭を下げ、手を握りしめ涙を流したと言う。「すまなかった」
彼はそこで思い知る。楽しさの中にしか教育はない!と。
テレビは本当に、麻薬だ。作る方もその意識で作っている。どう刺激するか、どう麻痺させるか、どう常習性をつけるか。
用法用量を守らないと死に至る危険がある。活用法は気をつけよう。
でも、とてつもないコンテンツがそこには潜んでいる。気をつけて、そっと覗いてみよう。
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そうそう、「突破するアイデア力」宝島社新書、読んでいただけましたか?この連載の月間訪問数は1万人以上。次作(「突破するアイデア力 2」?)のためにもご協力、よろしくお願いします。
是非、回りの方・ご家族にも読ませてあげてください。年代で言うと中・高・大学生に最適と思っています・・・サイン本の応募の最年少は17才高校生の方でした。
世田谷区の全公立図書館、福井県の全公立図書館及び全公立高校・中学校への寄贈を進めています。東京には公立中学だけで700校あるのでちょっとびびっていますが・・・
本を読んでのご感想もお待ちしています。
では。
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