#カップル比 10%の大学講義
数年前のある日、上智大学を訪れた。当時の上司、程近智さん(現アクセンチュア日本社長)が持っていた経営学講座の講師としてだ。
キャンパスに足を踏み入れた頃からクラクラするほどの違和感。女性比率8割のキャンパス風景は極めて馴染みのないものだった。
講義の行われる大教室は、最大300名を収容するすり鉢状の階段教室。200余名の受講生が三々五々集まってくる。直前に教室変更があったため、遅刻者多数である。
全体の男女比は半々ほど。前列には割とマジメな人たち、中段には色々な人、そして後列には遅刻者となんとカップル受講者たち。みなさんザワザワザワザワ。程さんによる講義が始まっても、ざわつきは収まらない。まるでマイク・スピーカーによる大音量と張り合うかのように、私語に精を出している。ワイワイガヤガヤヘェヘェソウナンダー。
壇上からの話の内容は、自分たちが前回の講義時に出した質問票への答え、だというのに・・・まじめに聞いている人は3割程か。
もうすぐ私の出番。テーマはCRM。でも問題はそれ以前だねえ。これではダメだ、この「場」を一体どうしようか。私は階段教室の最後方からじっと「戦場」を見つめる。
#場の支配、心の準備
程さんから紹介され、私は教壇へと歩き出す。一歩一歩、カツカツとブーツの靴音高く。
視線は前に、学生の方は見ない。学生からの視線が背中に集まるのが分かる。そのまま壇に飛び上がり、くるりと振り向く。にこりとも、せずに。ここが勝負だ。
私はそのままゆっくりと頭を廻らせ、学生達を眺め渡す。口を結んだまま、一言も発せず、無表情に。数秒後、ただならぬ雰囲気に、急速にざわつきが減っていく。
それでも話し続ける呑気な学生もまだ2割。この講師はなにもんだろう、何でだまってんだろう、なんて喋っている者も。では、もう一撃。
私は人差し指を立てて、口の前にそっともってくる。これなら分かるよねえ。みなさん、静かに、しましょう。
やばい、といった感じの緊張感と共に「ほぼ」全員の無言の視線が私に集まる。
これでも数名、前すら見ずに私語に励む者がいる。私は視線だけでその周りの学生に促す。「そいつを黙らせてくれないかな」
ここまで30秒足らず。もう一つ、準備が要る。中段の人、私の声が聞こえますか?聞こえますね。私はマイクを使いません。後列の人、講義を聴く気があるなら前に移ってください。席は充分あります。
席の移動にもう30秒。余計なことは喋らない、余計な動きもしない。ただじっと壇上から移動を見つめる。
よし、準備は出来た。私のではない。聞く人たちの心の準備が、だ。
虚心坦懐 受け入れ、集中する心なくして学びはない。さあ講義を始めよう。
#質疑応答というモノ
これも数年前のある日、東京大学を訪れた。これまた大学院生へのゲストスピーカーとして。皆の聞く態度や姿勢はOK。皆、真剣に耳を傾けている。
締め括りにミニケーススタディとして「大学生へのPC販売 倍増プラン」なるものを、数人ずつのチームに分かれ、考えて貰う。最後の40分はそのチーム別発表会。各チーム、素早く数枚のパワーポイント資料まで作っている。
何チームかは発表内容も良かった。でも・・・質疑応答がなっていない。これじゃあ、無意味、無価値。
この講座では恒例となっているらしく、学生自身が仕切って、発表・質疑応答、と進めている。教授や講師は口を出さない「自主性を重んじた」運営らしい。
「誰か質問ありませんか」「はい」「どうぞ」
「このプランではXXというリスクは考慮されたのですか?」「YYはZZだという議論はしました」
「他に質問はありませんか」「はい」「どうぞ」・・・
2チーム目で堪忍袋の緒が切れた。
「いいですか?」「どうぞ」
こんな質疑応答、なんの価値もない。質問する方もちゃんとした質問になっていないし、答える方もちゃんと答えていない。質問自体が体(てい)を為していないのに、それになんで、ただ答えようとするのか。質問者も意図があるならそれをなぜハッキリ言わないのか。意図と違う答えが返ってきたなら、なぜそこを突っ込まないのか。
YYはZZだって言われてそれでいいの?XXリスクの答えになって無いじゃない。その前にXXリスクを考慮したか、って何のために聞きたいの?それを考慮したら結論が違うじゃないのって言いたいんでしょ。
議論はなんのためにするのか?質疑応答はただの点数(クラスでの発言点とか)稼ぎでもないし、勝ち負けを決めるためのdebateでもない。よりよい結論を導くための、「発展的議論」にこそ価値があるだ。
#良い問いは答えを含む
正しく問い、正しく答えよ。特に問いは大事。キチンと問うことさえできれば、答えは必ず明らかになる。答えをズバリ当てるのではなく、答えの性質が明らかになる問いがよい問いなのだ。
ある課題に対しての本当の答えがアルファベットの「K」だったとしよう。そこに「何cmですか?」という問いは、答えに辿り着かない問いだ。
「文字か図形か」とか「何文字か」とかは良い問い。問い自体に、実は答え(の一部や基本属性)が含まれている。
さて質疑応答をやり直そう!
質問者はもう一回、質問をし直すように。意図や意見を明確に、そしてそれを軸として明確な質問を。それに対して、回答者は逃げずに、正面から答えるように。XXか否かと問われて、ZZと思いましたなどと決して答えないように。さあ、どうぞ。
もちろんこんな的確な質疑応答がすぐに出来たら苦労はない。でも、実はそんなに難しいことでもない。だって正論なのだから。
要は慣れの問題だ。慣れてしまえば、これが当たり前になる。多くの組織に蔓延(はびこ)る、曖昧で玉虫色の「質疑応答もどき」が気持ち悪くてしょうがなくなる。
そうなると普通の組織には居辛くなるかもしれない。「和」を乱す者として・・・そしたら普通でない組織に移るか、新しい組織を創れば良いではないか。そんな「普通の組織」は早晩滅びるであろうから。
学生諸君、心の準備は良いか?正しく問い、答える訓練は出来ているか?
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