三谷宏治の学びの源泉

[第32回] 三谷文庫創設記念授業(前編)

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 #漢方薬から甲骨文字

 今日は、母校 吉野小学校での本の寄贈式の日。
 全校児童60名余の図書室に、700冊の本が加わった。その名も「三谷文庫」(自分で付けたのではないので、念のため)。

 記念というわけではないが、折角なので「本の不思議」という授業を4年生と5年生、24名向けに行った。そこでの内容を簡単に紹介しよう。

 漢字が最初に作られたのは、紀元前14世紀。殷(いん)の時代「甲骨文字(こうこつもじ)」としての登場だった。亀の甲羅や牛の肩胛骨に刃物で切り刻まれた「文字」は、限りなく絵画に近く、生き生きとしていた。
 それもそのはず、書かれた内容の多くは「占い」。しかも「王さまが東に遠征する。吉か凶か」「凶ならばそれを吉に変えるのに生け贄10人でよいか」といったものだ。10人でダメなら20人、それでもダメなら50人・・・たった一度の祭祀(さいし)で最大650人の羌人(きょうひと チベット系遊牧民 羌族の人たち)が生け贄とされたときもあったらしい。
 そんな甲骨文字ではあったが、その再発見には面白いエピソードがある。
 近年、中国では殷や夏(か)といった古代王朝は架空のものとされ誰もその存在を信じてはいなかった。ところが19世紀も押し詰まった1899年、ある研究者たちが漢方薬「竜骨」の中に文字を見いだし、そこから甲骨文字が発見されたのだ。
 竜骨とは土に埋もれた古い骨の化石や甲羅のこと。昔の中国ではこれを粉末にして薬にしていたわけだ。彼は持病のマラリヤの薬として竜骨を求めたのだが、たまたま粉末にされる前の甲羅を見て、そこに文字らしきものを見つけたのだった。
 これは、絶対何かある!
 彼は竜骨を買い占めに走り、北京の漢方薬界では時ならぬ竜骨バブルが起こった、とか。
 結局、それらが元は河南省の「殷虚」から発掘されていたことが分かり、大規模な調査が行われ、殷時代の宮殿跡や陸墓(りくぼ)が見つかった。
 これが漢方薬から甲骨文字、殷遺跡発見への道だ。

 #甲骨文字から楷書まで、1700年の旅

 しかし漢字の始祖たる甲骨文字から、真の文字と言われる「楷書体」までには、数ステップ、1800年以上の時が必要だった。

 甲骨文字の後、青銅器に刻む文字として金文(きんぶん)が出来たが、その後中国では春秋戦国時代に国が分かれ、文字もバラバラになった。
 それらを統一したのが秦の始皇帝だ。彼は国と共に文字をも統一したのだ。そこで生み出されたのが「小篆(しょうてん)」。今でも篆刻(てんこく)として印鑑などに用いられている。
 これは美しい文字だったが、字体が複雑で書くのに時間が掛かる。
 法治国家 秦の膨大な文章作成業務を担っていた文官たちが、業を煮やして創り出したのが「隷書(れいしょ)」だ。これが現代の文字たちの直接の祖先である。
 3世紀に日常用として隷書を崩した「行書体」や「草書体」が起こり、4世紀頃 書聖 王羲之(おう ぎし)がそれらを昇華させた。
 しかし草書らの自由さは多くの異体字を生み、カジュアルすぎて正式な用には向かなかった。そういった中で、最後に生み出されのが「楷書体(かいしょたい)」である。全国統一の官僚登用試験である科挙(かきょ)の存在もそれを後押しした。
 最終的には欧陽詢(おうよう じゅん)を始めとした初唐四大書家たちが真の文字「楷書」を完成に導いた。5世紀末のことだ。

 漢字の旅はここに止まらない。いよいよ日本へと渡る。

 #ひらがなは草書から、カタカナは楷書から

 日本では日本語を表記するために最初、漢字をそのまま当てはめていた。それが万葉仮名。
 そこから日本人が発明したのがひらがなでありカタカナだ。ひらがなは極端な草書体を模したもの。「安」が「あ」、「以」が「い」、「宇」が「う」になった。
 一方、カタカナは楷書の一部を拝借したものだ。「阿」の偏から「ア」、「伊」の偏から「イ」、「宇」の冠から「ウ」が作られた。驚くなかれ、「毛」の下半分で「モ」、「不」の一二画で「フ」だ。
 こうして人は、様々な書体を生み出してきた。より使いやすく、より分かりやすく、より美しく。時には分散し、時には統一され。

 現代の分散は「印刷書体」の多様化にある。現在入手可能な日本語フォントが、PC用だけで1600種。数千文字のデザインが必要な日本語に比べ、僅か数十で済む欧文では、数万を優に超える。
 他方、統一の力もPCから掛かっている。
 マイクロソフトのWindowsで扱えるか否か、そこでの標準か否か。Windowsで正しく表示されないからと、字体をわざわざ変えた市町村すらある(奈良県葛城市、なのにVistaで字体が変わって大あわて・・・)。
 印刷字体の中心は、明朝体とゴシック体。いずれもマイクロソフトの標準でもある(MS明朝、MSゴシック)。

 では、子どもたちが普段眼にする「字体の不思議」には何があるだろうか。

 #教科書体の誕生

 北、人、入、糸、芝・・・これらは何れも、書き文字である楷書体と、印刷書体である明朝体・ゴシック体の姿が、大きくずれるものたちだ。
 「北」などは、自分で書いてみれば直ぐ分かる。
 楷書では左の縦棒が突き抜けてはいない。左下からのハネが勝っている。
 「糸」もそう。明朝体では上部が五画に見えるが、楷書では明らかに三角だ。
 木版刷りの印刷書体として生み出された明朝体は、その「見やすさ」のために独特の形を持っている。それは書きやすさでも書き順の統一とも関係ない世界での美しさだ。

 これで困ったのが「教科書」だ。
 子どもたちにまず教えるのは「楷書体」。正しい字として国語で、習字で、一文字ずつ教えていく。
 なのに教科書の印刷書体が明朝体では、矛盾が起きる。「どっちが正しいの?」
 それに対応するために文科省(当時は文部省)が発注したのが後に「教科書体」と呼ばれることになった教科書専用活字だ。
 この活字が最初に使われたのは1935年(昭和10年)。以来、教科書にはこの特殊書体が使われている。最近のPCでは「HGS教科書体」などが入っているかもしれない。一度じっくり眺められては、如何。

 #「本」の進化、「図書館」の始まり

 さていよいよここからが「本」の話だ。
 本は文字と媒体からなる。それを結びつけるのが印刷だ。
 媒体自体は粘土板に始まり、パピルス、木簡・竹簡、羊皮紙、そして紙と進化を続けてきた。
 もちろん最大のブレークスルーは中国による「紙」の発明だ。しかし1世紀以前から中国で作られていた紙の技術が、捕虜となった紙職人と共にイスラムやヨーロッパに伝わったのが8世紀。
 それまで古代西側文明において主体であったのは永らくパピルスや羊皮紙だった。paperの語源ともなったpapyrusだったが、高価な割に持ちも悪く製本にも向かず、なかなかの難物であった。
 では印刷はどうか。これも古代においては印刷以前、つまり手写しが基本だった。
 一冊をちゃんと写本し仕上げるのに約一年。それだけで今なら数百万円のコストが掛かる代物だ。
 写してチェックして修正して装飾して製本して・・・本一冊が膨大な時間と手間を必要としていたのだ。それでも「本」の価値を知る者は多かった。

 古代エジプトの誇るアレクサンドリア図書館には50万冊の蔵書が積まれ、そこにはなんと常時5000人の筆写人が雇われていたという。
 知識こそを力と見抜いたプトレマイオス一世が創設したアレクサンドリア図書館は、紀元前3世紀から数世紀にわたって世界最大の知識の殿堂であった。
 その蔵書拡大意欲は強烈で、入港する全ての船を検閲しては新しい書物を没収し、筆写した後に写本の方のみを返却したという。
 またある時、プトレマイオス3世は、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスの悲劇作品のアテナイ公式版を手に入れるために15タラントン(約1億円程度?)の保証金を供託し、借り受け、やはり写本のみを返却したとか。オリジナルを手に入れるための、供託金没収覚悟の強攻策だ。

 言葉は生きているものほど変化が激しい。地域毎に方言が生まれ発音が変わり、表記法や単語の綴りもどんどん多様化してしまう。言葉が流動化する中では知識はうまく伝わらない。それを「固定化」したものが本なのだが、古代において、本はとにかく貴重だった。
 そのために知識は一部の国、一部の階層に留まり、一つの書物、一つの統一された言葉が世界に拡がることはなかった。例えそれがキリストの愛を伝えるものであれ、ボンペイの悲劇を訴えるものであれ。
 紙が普及して木版刷りや活版刷りになってもそれは変わらなかった。生産効率は大して上がらず、本は高価なままだった。
 その変革にはグーテンベルグを待たなくてはならない。そのシステム改革が成し遂げられたのは僅か560年前、1447年のことだ。

 #グーテンベルグの生産コスト改革

 それまでの印刷技術を練り上げ、組み合わせて作られた彼の印刷術の根幹はその鉛活字製造法にある。
 合金の配合を工夫し、作りやすく摩耗しにくく扱いやすい活字のお蔭で、全体の工程は大幅に効率化された。
 大幅なコストダウンが成し遂げられ、聖書のような大部の本でも一般労働者2年分の年収程度、普通の本ならその数十分の一で買えるところまでに下がった。

 結果、もたらされたものは何か。
 多くの人々が個人として本を買えるようになったこと自体はもちろんだ。その他に大きな功績が2つある。
 一つはキリスト教の普及、もう一つは英語(や他の主要言語)の統一化だ。
 前者は書物としての「聖書」がひろく普及したことによる。安くなった聖書は全ての街々の教会や集会所に置かれ、牧師の代わりにその教えを世界の隅々に伝えた。
 後者はグーテンベルグに印刷術を学んだ英人カクストンに始まり、シェークスピアにとどめを刺す。カクストンはビジネスとして本を印刷し売るために最もメジャーそうな方言を選んだ。それがロンドン周辺の英語(日本の古文にあたる中英語)だった。そしてそれが標準語となっていく。
 その標準英語で書かれたシェークスピアの作品群は当時(「ロミオとジュリエット」が1595年 初演)、圧倒的な支持を集め、その作品(戯曲や詩)は英語圏で広く読まれることになった。これでようやく、英語が一つのものになったのだ。
 言葉が統一されたお蔭でまた、本が売れるようにもなっていく。本の時代の到来と言えよう。

 それでも当時の書籍刊行数は微々たるもの。全ヨーロッパ計で年に3000タイトル(17世紀)ほどと推定されている。
 本当の本の時代は20世紀に入ってから。現代では年間、なんと数十万に及ぶ新刊が出る。アレクサンドリア図書館を一年で埋め尽くす量だ。

 その爆発的拡大に、人は一体、どう対応してきたのか。

 さて、本の不思議 前半はこれくらいにしておこう。
 後半は「本の流通革命」「アマゾンジャンケン」と「本の選び方」のお話しだ。

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プロフィール

三谷 宏治 氏

KIT(金沢工業大学)虎ノ門大学院 教授
http://www.mitani3.com

1964年生まれ、三女の父。 87年、東京大学理学部物理学科卒、92年、INSEAD MBA修了。87年から96年までBCG、96年から06年までアクセンチュア戦略グループ。03年から06年は同 統括エグゼクティブ・パートナー を務める。 06年8月からは教育(特に子ども・親・教員向け)に注力し全国で講演・研修・授業を行う。 著書多数。『経営戦略全史』『ビジネスモデル全史』『一瞬で大切なものを決める技術』はビジネス書賞を獲得。近著に『戦略子育て』『新しい経営学』『戦略読書〔増補版〕』など。早稲田大学ビジネススクールおよび女子栄養大学 客員教授。永平寺ふるさと大使。

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