#リテール特化とは「田舎の銀行」と言われて怯まないこと
前回に引き続き、私が頂いた諸先輩からの金言を初回しよう。
上記は、現・早稲田大学ビジネススクール教授のIさんが、ある大手地銀の役員向け報告会で言い切った言葉だ。
当時まだ多くの都市銀行(死語)は、海外ネットワークや法人向け国際事業、証券事業を無闇に強化していた。そういった中、その地銀は中期ビジョンで「リテール特化」を打ち出した。慧眼である。
ただ、なんともそのビジョンと諸戦略がかみ合わない。リテール、つまり一般庶民からお金を集め、貸し、サービスして、その利鞘で生きていくことを目指しているはずなのに、肥大化した国際事業は若干の縮小のみとか、優秀な人材は証券事業にとか。
業を煮やした彼は報告会で役員達に問いかけた。
「本当にやる気ありますか?」
「『田舎の銀行』といわれるのがイヤならリテール特化なんてやめましょう」
「中期ビジョンを決めるということは、中長期的にヒトを動かして貼り付けることです。それが出来ないならどんなビジョンもムイミです」
「方向を変えるということは、非常に気持ちが悪く、居心地の良くないものです。それが当然です」
「で、どうしますか」。
これは、しびれた。
当時彼は40才ちょっと前であったと思う。彼が大手地銀の役員陣を相手に示した、改革への気迫は冷たく強く燃える炎のようであった。
彼からはもう一つ、大事な姿勢を教わった。それは「so what?」という問いだ。
彼は旧都銀及びHBS(ハーバードビジネススクール)出身だったので、我々新卒軍団は、彼にファイナンス関係の社内研修講師を何回かお願いしていた。
ある時、提出させた事前課題レポートをニコニコしながら参加者に手渡した。私に対しては「よく頑張ったね」と暖かいお褒めの言葉が。ウキウキしながら受け取ったレポートを見てみると、赤ペンで彼がコメントを入れている。
そこには毎ページ毎ページ「so what?」が連発。
「だからなんなの?」「これだけじゃ分からないよ」「A社の方が在庫日数が多い・・・それで?」
10ページ余のレポートに、多分、全部で20個はso what?(だからなに?)が列んでいたと思う。自分の甘さを思い知った瞬間だった。レポートを書いていた時は、なんとなくそれで理由になると思っていた。
でもそうじゃなかった。
#XX事業は八百屋なんです、XXは大根です
アクセンチュア トップマネジメントMさんの「比喩」は秀逸だ。
ある大手メーカーでの新規事業プロジェクトでのお話し。報告内容は出来上がっている。先方のチームメンバーとも摺り合わせ済み。ただ、その日は担当役員に対するお初の報告会。
そういったときの上の者の役割とは何だろうか。もちろん最終責任者としてチームをバックアップすることなのだが、彼の取るひとつの手は「報告内容・メッセージを、ひとつの言葉・表現で、わかりやすく表現すること」だ。対象はズバリ顧客の最終責任者である役員レベルだ。
メンバーでなく、リーダーでもなく、そのプロジェクトのオーナーとして覚えておくべきことは何か、持つべき感覚は何か、それに特化しての「ひとつの言葉・表現」だ。
一般的に言えば、新規事業は失敗する確率が非常に高い。知らないことをやるのが新規事業だから当然なのだが、大きな原因は「感覚のズレ」にある。本来事業とのスピード感覚、顧客ニーズ感覚、リスク感覚等々のズレが、間違った判断や態勢に繋がってしまう。本業で強ければそのズレはなおさらに大きい。
メーカーは「新品」を売って儲けている。新品の販売は独占的(メーカーチャネルでしか買えない)であり、同じものが1~2年変わらず売られ、粗利も大きいからじっくり販売していられる。
しかしその事業では状況は全く違っていた。チャネルは群雄割拠、数週間で売れ筋がどんどん動き、粗利も薄い。
彼はそれを「八百屋」だと言い切った。
「間違えてはいけない。XXは大根なんです、生鮮食品なんです。売れないならすぐ入れ替えなきゃダメです」
「だからXX事業は八百屋と同じですよ。回転勝負!新品と同じだと思っていたら、必ず失敗します」
この時の担当役員の方は、後々までその比喩を覚えられており、折に触れ「あれで目が覚めました」と語られていた。
#ホント、楽しいよ
毛色が変わって、これは構造計画研究所 社長・CEOの服部正太さんの言葉だ。彼とは仕事を直接ご一緒する機会はなかったが、その後もたまにお会いしてお話しさせていただいている。
その度、彼は言う。「三谷さん、楽しい仕事やってる?構造計画はホントに楽しいことやってるよ!」
1959年に設立された構造計画研究所は、情報システム・サービスの分野で、常に最先端だ。もともとの建設・土木での「構造計算」の強みをもとに、技術系エンジニアリング会社として非常に高い専門性を誇っている。通信・IT分野での基幹ソフトウェア開発、建設分野でのCAD(Computer Aided Design)構築・販売、製造分野でのリスク分析ツール(Crystal Ball)等々、各分野の専門家で知らぬものは無い独自の商品・サービスを提供する。
その経営スタンスはかなりユニークだ。HPでの経営方針には、「『ビジネス・マインドに裏打ちされた真摯な技術者集団』へ進化を遂げ」「高付加価値提案を実現する」ために「閉じこもらないコラボレーション」「失敗を糧にするフィードバック」「情報技術の進化に負けないスピード」を実現していくとある。いずれも通り一遍ではない言葉・表現であり、中に秘めた思いの強さが感じられる。
彼との話で必ず出てくるのは「楽しさ」だ。創造性の高い技術が、顧客のために活かされることの価値や純粋な楽しさ、自信が伝わってくる。
ヒトと違うことをするからこそ意味がある。他人や他社と同じでないことの「居心地の悪さ」よりも、違うことの「ドキドキ感」をこそ楽しもう。
やっぱり仕事はこうでなくちゃね。
余談だが、構造計画研究所にシーエーシー(1966年コンピュータアプリケーションズ=CACとして設立)とSRA(1967年設立)を加えた3社が、日本における「独立系システムインテグレータ」の草分けだ。何れも「言われたままの下請けはやらない」という信念をもって創業され、以来、上流志向の強いシステムインテグレータとしてこの変化の激しいIT業界を40年にわたって生き抜いている。尊敬すべき企業群だ。
#Think Straight, Talk Straight (単純に考え、率直に言う)
先輩、という分類には当たらないが、私が尊敬する元同僚を二人。ヘイドリック・アンド・ストラッグルズの日置克史さんと、エイムネクスト社長の清威人さんだ。
二人ともアクセンチュアで「番を張っていた」名物コンサルタント。アクセンチュアの企業文化である「Think Straight, Talk Straight(単純に真っ直ぐ考え、率直に言う)」を体現していた新進気鋭の若手幹部だった。
1996年秋、アクセンチュアに転職した直後、私は新しい環境の中で途方に暮れていた。社内に私を知っている人が殆どいない。社内各部署に問い合わせで電話しても「でぃーびーに書いてあります、それを見て下さい」と言われて終わり。
いや、DB(データベース)を見ても分からない、もしくは目的のDBが見つからない(当時は社内ポータルが整備されていなくて数百のDBが乱立していた)から電話してるんだけど・・・覚悟はしていたけれど、新しい組織の中で生きていくって、やっぱり大変なのね。
仕方ない、兎に角、直接の知り合いを増やすしかない。私は片っ端から部署を訪ね、食事に誘い、相手を知る努力、自分を知ってもらう努力を始めた。
最初の仕事(プロジェクト)もまだ決まっていないある日、同じ戦略グループの同僚であった日置さんが、私に声を掛けた。
「三谷さん、私がやっているプロジェクトのアドバイザーをお願いできませんか」
日置さんが戦略グループ屈指の超強力コンサルタントであることを(あまり)知らなかった私は、二つ返事で引き受けた。「ええ、もちろん、よろこんで」
それから数ヶ月間、彼は私と二人、週一くらいでディスカッションを続けた。基本的には彼が自身のプロジェクトで作っていた資料やストーリーを説明し、それに私がその場で必死にコメントする、という形だ。彼はふんふんとそれを聞き、私のコメントの本質を探り出す。
たいていの場合、翌日すぐに彼は、「改良版」を携え再戦を挑んでくる。「昨日頂いたアイデアを自分なりに考えて、枠組みを作ってみたんですけど、見ていただけますか」と。アイデアの単純な適用に留まらず、そこには必ず、彼なりのプラスアルファ、いやそれ以上の工夫や独創があった。
こういう議論自体、とても刺激的で楽しいものだった。しかし、私が何より彼に感謝し、尊敬したのは、彼の「学ぶ姿勢」だった。
日置さんは純粋に私から、考え方やアプローチを「学ぼう」としてくれていた。
新しい組織の中で自分の居場所や価値を探しあぐねていた当時の私にとって、これは何より嬉しかった。
清さんも同様だ。同じ所属ではなかったが、ある日突然声を掛けられ、彼の主催する社内勉強会での講師を頼まれた。
「三谷さん、なんか教えてやってくんない?」「商品企画とか、製品企画とかに役に立ちそうな、なんか」
彼もやはり、自身のプロジェクトへのアドバイス、サポートを私に「頼んで」くれた人の一人だ。その後も、ただの飲み友達として色々なことで私を「使って」くれている(含む、夜の席)。
そう言った中で、私は感じていた。
「頼られる、って嬉しいこと」
「それはきっと他の人も同じ」
「自分ももっと人を頼りにしないと、いけないな」
ともすれば、内心密かに増長し、独立独歩で行こうとしすぎる嫌いが、私にもある。それを自ら諫めるようになったのは、お二人との付き合いのお陰であったように思う。
さて、きりがないので私がこの20年、諸先輩たちから受けたご指導ご鞭撻の紹介はこれくらいにしよう。
私がひとつ、自慢できることがあるとすれば、こういった言葉や教えを、取捨選択しながらもちゃんと守り実践してきたことだろう。
人真似から始めよう。そのうちきっと自らの血肉に。
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