#感性の存在
「感性」の右脳型に「論理性」の左脳型と、世の脳学者はタイプ分けに喧(かまびす)しい。OECDによれば「そんなことで能力が左右される証拠はない」そうだが。
そんな単純なタイプ分けはともかくとして、この世に「感性」の優れた人間は存在するし、その価値も大きい。
受け手として、そして作り手・送り手として。
論理性を重んじる戦略コンサルティングの世界でも、もちろんそうだ。ピラミッド(=論理)が作れることは必須だが、それだけで済まないから稀少性がある。
例えば「付加価値」という言葉がある。中途採用のコンサルタントたちが最初に悩まされる言葉だ。
何を調べてきても、どんな資料を作っても、すぐ言われる。
「これにどんな付加価値あるの?」「付加価値ゼロ!」
何をもって付加価値と言うのかとマネジャーに問えば、不承不承、もしくは嬉々として説明してくれるだろう。抽象的には「お客さまのためになること」だし、具体的にはその時々のテーマで様々だ。
そんなことは分かっている。でも、なぜその資料には付加価値があって、この私の資料には無いのか、それが分からない。
おそらくそれは、その時、百万言を費やしてもそのヒトには伝わらないだろう。価値があるのか無いのか、それを判断できることがまずは、コンサルタントの第一歩であり、それは極めて「感性」の領域の話なのだ。
結果的に多くの中途採用のコンサルタントたちは、恐るべきスピード(と体力)で経験を積み、その感性を獲得していく。
本当の地獄(と楽しみ)は、その後に待っているのだが。
#言葉では伝わらないもの
井上雄彦氏の『バガボンド』の4~8巻にわたって描かれる、宝蔵院 胤舜(ほうぞういん いんしゅん)と武蔵の戦いが秀逸だ。
宝蔵院流槍術(そうじゅつ)の二代目 胤舜は、圧倒的な天賦の才を誇るが故に、自分を高めるに足る相手がいない。そこに現れたのが野人 武蔵である。胤舜は武蔵を相手に、命の遣り取りレベルの死闘を渇望する。
一度は敗れた武蔵だが、山中での修行を通じ「とらわれること」の弱さに気づく。
「心が何かにとらわれれば 剣は出ない」 「一本の木にとらわれては 森は見えん」
「最初に対峙したときにすでに 俺はとらわれていた」
「『俺』自身に」 「『俺は強いのだ』という思い込みに」
それでは「敵が見えるはずもない」
深夜、森の中、二度目の真剣勝負の中で、武蔵は遂に自在の境地を得る。
「この満天から見下ろせば 胤舜も俺も変わりはない」 「大丈夫だ よく見える」
死闘の結末は『バカボンド』を読んで頂くものとして、本当のメッセージはその直後に、胤舜の祖父、胤栄から語られる。
胤舜は過去のトラウマの中に生きていた。ただただ、それを埋めようと、覆い隠そうと、強さのみを求めていた。そこには人を思いやる気持ちも、慈しむ心もなかった。
胤栄はそれをなんとか変えさせるために、山中での武蔵の修行相手となって武蔵を鍛え、孫 胤舜の最強の敵としてぶつけたのだ。
「あいつの人生を前に進めてやらねば わしが本当に伝えるべきものは伝わらぬ」
戦いの傷も癒えた頃、胤舜は武蔵との戦いに用いた真剣の十文字槍を、師でもある胤栄に返す。
真剣はもう無用、だと。
胤栄は嘆ずる。
「無刀(*1) ― この世のあらゆる事象の中で 言葉で言い尽くせるものが一体どれほどあろうか」
「理屈ではない 感じるものじゃったんじゃ」 「晴ればれじゃ」
(*1)胤栄は若かりしころ、柳生新左衛門(後に石舟斎、柳生新陰流の祖)とともに上泉秀綱に学んだ。両名ともに秀綱の弟子 疋田文五郎に歯が立たず門下となる。上泉秀綱は『無刀の境地』に達していたとされる。
#受け手から送り手へ
芸術品の真贋を見抜く力は感性であり、その感性を磨くのにもっとも大切なのは「真作」を見続けることだと言われる。
確かに先ほどのコンサルタントの話でも、「付加価値」を理解する一番の早道は真作を見続けることだ。価値のあるアウトプットを見続けることによって、そのものに価値があるかどうか、自然と分かるようになってくる。
しかし、問題はここからだ。
コンサルタントは職業として、価値の「送り手」であって「受け手」ではない。鑑定士やクライアントであれば、価値があるなしの判断力がつけば、ほぼ十分だが、コンサルタントはそうは行かない。
画家や作家、彫刻家と同じように、自ら価値あるものを、提供せねばならないのだ。
少なくとも、そのアウトプットに価値があるかどうかが分かることで、自分のものを選別できるようになる。それまではマネジャーに指摘されなくては分からなかったことが、自分でも見えてくる。
ああ、これじゃ、足りないな・・・(溜息)。
真贋が見えるからといって、自ら良い絵が描けるかどうかは別問題。ただ、早めにそれが分かることで、試行錯誤の回数は稼げる。
作って壊し、作って壊し、作って壊し。その真剣な繰り返しが、その人に作り手としての「感性」を与える。少なくともその可能性を、大いに上げるだろう。
#伯楽は常にはあらず
一方、真贋を見分ける目を、受け手ではなく作り手として活用することも、ある。
名馬を見分ける才能を持ち、それを職業としていたのが馬の鑑定人「伯楽」たちだった。
「千里の馬は常にあれども伯楽は常にはあらず(*2)」
一日に千里を走る馬も、それと見分けられて育てられ訓練されなければ、その能力は育たない。しかしながら、名馬の候補はいつの時代にもいるが、名伯楽がいつもいるとは限らず、多くの名馬が埋もれていってしまう。
良い人材を見分けて、必要な資源と権限と報酬を与えて存分に仕事をさせることが出来れば、この世のたいていのことは解決するだろう。
だからこそ、サッカーの代表監督は大切であり、高給取り(*3)なのだ。
自らを名馬たらしめるべく頑張りますか、それとも名伯楽たるべく指導に励みますか。
どちらの「感性」に、あなたは優れていますか。
【後書き】
いつもは「感性より意識的経験」「技を身につけるべく繰り返せ」と言っている。今回はあえて学びにくい「感性」をテーマにしてみた。
とりあえず、試論として。皆さんのご意見、お待ちします。
これも「作ってハカる」アプローチか。
(*2)韓愈の「雑説」から。世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。
(*3)南アフリカ大会ではイングランド監督の Fabio Capelloの年俸が880万ユーロ、イタリア監督の Marcelo Lippiが300万ユーロ、ドイツ監督のJoachim Lowが250万ユーロでトップ3。日本監督の岡田武史は80万ユーロ。