「プロ経営者」になる。〜経営者インタビュー〜

画像:須原 清貴 氏

須原 清貴 氏

住友商事、ハーバード、BCG……エリート街道を邁進したかのように見えるものの、文字通り「山あり谷あり」のキャリア・パスを歩んできたのが須原清貴氏。
「失敗から学ぶ」ことの重要性を唱える若きプロ経営者はどのような経験をして、そこからどんな学びを得てきたのだろうか?危機にあったキンコーズ・ジャパンを劇的に甦らせた秘訣はどこにあったのか?
20の質問のすべてに、裸の自分を隠すことなくさらけだしてくれた。

須原 清貴 氏
キンコーズ・ジャパン株式会社 代表取締役社長
http://www.kinkos.co.jp

1966年、岐阜県生まれ。慶應義塾大学法学部在学中に2年間の米国留学を経験。卒業後、住友商事に入社。主に金属、情報産業分野の事業を担う途上、ハーバード・ビジネススクールに留学しMBAを取得。その後、2001年にボストン コンサルティング グループへ。2003年、CFO人材育成事業のCFOカレッジを設立。2004年よりGABAの経営を担いCFO、COOを歴任した。2009年、フェデックス キンコーズ・ジャパン(現 キンコーズ・ジャパン)へ代表取締役社長として招聘され、2012年に同社がコニカミノルタのグループ傘下となった後も、引き続き経営トップとして成長を牽引している。週末はサッカー審判を楽しむ一男二女の父。


(※現在は退任されています)

[1]自己紹介をお願いします。

私の父は郷里の岐阜で小さな会社を経営していました。学生時代、私はその会社を継ぐつもりでいましたので、就職活動もそれを前提に動きました。つまり、将来、父の経営を受け継ぐだけの実力を養うため、その修行ができそうな就職先を探していたんです。自分なりにどういうところが最適か考え、メーカー、商社、百貨店などを当たっていたんです。その結果、内定をいただいた住友商事への入社を決めました。日本を代表する総合商社で営業職を務め、将来に役立てようと思ったわけです。

最初に配属されたのは金属関連の部署でした。ただし、素材としての金属の輸入事業に携わるような部門ではなく、金・銀・プラチナといった貴金属の市場でディーリングを行っていく使命を実行する部署でした。想像していた商社のビジネスとは違う商売でしたから戸惑いましたが、今思えば貴重な体験をさせてもらったと思っています。その後、貴金属ではなく銅や亜鉛といったベースメタルを扱う部門を経て、7年目からは情報産業関連の仕事に就きました。とはいえ、ここでも一風変わった仕事を任されました。大手ゲーム・ベンダーとのコラボレーションで、ベトナムにゲームセンターを設置するというものです。

なにはともあれ、こうして仕事を通じた学びを重ねて、それなりの経験値を得ていった私は、「学術的にも経営を習得したい」という願望が強くなり、社内の留学制度に応募してハーバードのビジネススクールへ行くこととなりました。ボストン コンサルティング グループ(以下、BCG)との最初の出会いはハーバードに通っていた時ですが、当初は転職する考えはありませんでした。MBAを取得して帰国した後は、再び住友商事で情報産業関連のプロジェクトに関わっていったのです。

ところが、いざ帰国して現場に復帰してみたら、担当する仕事にやりがいを感じなくなってしまいました。ケーブルテレビや衛星放送をベースにした新しいネットワークサービスの確立など、大きな予算をバックにした面白味のある仕事に関わることもできたのですが、実質の私の役割はといえば意志決定者たちの日程調整係。これでは自分を成長させることが出来ない、と感じた時点で、BCGから誘いを受けていたことを思い出し、転職を決めました。物事をロジカルに捉え、スピーディに結論を出していくコンサルティングの仕事は新鮮でした。しかし、どこか違う、という感覚もあった。

そんな中、転職から2年弱が経過した頃に住友商事時代にご縁のあったトミー(現 タカラトミー)の落合稔さんから声をかけられました。日本を代表する玩具メーカーでCFOを担っていた落合さんが、退職をして人材育成事業のベンチャーを立ち上げる、というのです。「一緒にやりませんか」というお誘いに、私はすぐ乗りました。会社の立ち上げ、というものへの興味もありましたが、いちばん強く惹かれたのは人を育てる教育の仕事だということ。

実を言えば、「父の会社を継ごう」と決意する前は教師になることが私の夢だったんです。それくらい教育というものへの思い入れが強かった。そこで、企業の経理財務をプロフェッショナルにこなしていける人材を育てるCFOカレッジという会社を落合さんとともに立ち上げ、運営していく日々が始まりました。ただ、とても充実した1年余りが過ぎたところで、落合さんのもとに明治大学からビジネススクールの教授になる話が届き、会社は発展的解散にすることを決めたのです。実を言えば、ほぼ同じ時期に私のところにはGABAの経営に参画する話も来ていました。

こうして、2004年に入社したGABAで、私はCFOとなりました。やがてCOOとなって、実質的な経営を任せてもらえるようになりました。入社3年後に上場を果たすところまでは、GABAは非常にうまくいっていました。業績も伸び、マーケティングも功を奏して知名度が飛躍的に上がった。しかし、ピンチは上場直後に一気に押し寄せてきました。

よく言われがちなことではありますが、ベンチャー企業は上場を目指している期間、皆がモチベーションをあげて頑張ります。明確な目標が眼前にあるから、経営者が特に鼓舞しなくとも自発的に良い仕事をしていく。ところが上場を果たしてしまうと、ある種、燃え尽きた感覚のモチベーション停滞期がやってきます。また財務の面では上場を急ぐあまり、無理をしていたツケが回ってきていました。

細かな話は差し控えますが、投資資金の返済が上場後の収益を圧迫する状況に陥ったのです。内部でこうした問題が噴出している時期にもかかわらず、外部環境にもネガティブな事柄が重なりました。株式市場全体の不調、GABAと同じ語学教育サービスの業界でナンバー1だったNOVAの不祥事発覚......。こうして、業績も急落した責任から、私は解任されることになりました。

それから数ヵ月、私は荒れました。「俺のせいじゃない。悪いのは●●だ」というように、すべてを人のせいにして、怒りを露わにしながら過ごしたのです。そして「事の一部始終を本に書いてやる」と考え、書き始めました。今、振り返れば、フラストレーションのはけ口のように書き始めたこの作業が、結果として自分の愚かさを知らしめてくれるきっかけになりました。

猛然と書き進めた原稿は、親しい友人などからは「臨場感があって面白い」と好評だったものの、当の私自身は「何かしっくりこない。筋が通っていない気がする」というモヤモヤを抱えていました。「何か大切な要素が欠けている」と考え抜いて判明したのは、「自分自身の犯した失敗」が何一つ書かれていなかったこと。GABAで起きたことをあらためて客観的に思い出し、整理して書き直してみたところ、モヤモヤは一掃されました。パズルのピースがすべて埋まった。自分が見失っていたピース、それは「俺が悪かったんだ」という事実だったのです。「後の祭り」でしかありませんが、猛反省をしました。

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とはいうものの、こんな私にも、ありがたいオファーは届いていました。その1つが、フェデックス キンコーズ・ジャパン(現 キンコーズ・ジャパン)で社長にならないか、というお話です。キンコーズといえば、オンデマンド・プリンティング・サービスなどを軸に、ビジネス・コンビニの市場を開拓し、確立した世界的なブランドです。

その日本法人の経営を担えるというお話を、私は喜んで引き受けることにしました。心のどこかに、「ここならば経営も安定しているという話だし、GABAの後半で味わったような過酷な状況と違い、一息つけるはず」という予測がありました。

しかし、いざ社長になって入ってみると、事前に聞こえていた話とはまったく異なる状況がありました。完全に火の車の経営状態。やるべきことはターン・アラウンドただ一つでした。「話が違う」と思ったのは事実ですが、GABAについての猛反省の後でしたし、真摯な姿勢でベストをつくそう、と心に決めました。プロの経営者が成すべき事を、今度こそ誠心誠意やってみよう、と思いました。

私が最初にやったことはといえば、印刷会社廻りでした。経営を立て直そうにも、そもそもプリンティング・サービスという事業自体を私は知りません。何をいくらで調達し、そこにどう付加価値をつけ、どれほどのスピードで提供していけばいいのか。そういう基本中の基本ともいえる事柄を、キンコーズの取引先である印刷会社のかたがたに聞いていったのです。行く先々で頭を下げ、「教えてください」と頼んでいく。プライドも何もあったものではないのですが、そうでもしなければいけない状況でした。

当時の財務状況では、親会社や外部から投資してもらえる可能性などゼロに等しい。私も含めキンコーズ・ジャパンにいる全員が、汗をかいて本来の業務で結果を出すしかないのです。嬉しいことに「キンコーズ」のブランドは強力でした。ほとんどの印刷会社の経営陣の皆さんが、何も知らない私に基本を教えてくれました。中には、過去にキンコーズ側が不義理をしていた経緯のある印刷会社さんもあったのですが、恥も外聞も捨てて訪問し、土下座しながらお願いをすると、快く胸襟を開いてくださいました。今もって、「足を向けて眠れない」ところばかりです。

こうして見えてきたのが、例えば「世界共通のビジネスモデル」を過信していたがゆえの原価率の悪さです。地道な経営努力をしていけば、それまでよりも安く紙を仕入れることの可能性が見えてきました。業務の見直し、無駄の排除を徹底することからも、少しずつ光明を感じ取れるようになりました。今、キンコーズ・ジャパンが次の成長へ向けて動いていけるのも、当時の皆の奮闘が下地にあるからなのです。なにより、ようやく私もプロの経営者としてやっていける自信を持てるようになったところです。

[2]現在のご自身の役割について教えてください。

私がキンコーズ・ジャパンに参画したのは2009年でしたが、先にお話ししたような経緯を通じて自信を感じ取れるようになるまでに1年がかかりました。そして、社員の皆と努力した成果が数字になって現れるまでには2年を要しました。そしてこの1年弱で、私たちはようやく売上や収益における再成長を始めたところです。もはやターン・アラウンドのフェイズではありません。

経営者の私の役割は2つ。1つはこのキンコーズ・ジャパンという会社を単体で大きくしていくこと。業界全体の潮流は決して右肩上がりではありません。印刷業界についていえば、少子化や、紙離れなどの要因から、今後さらに縮小する見通しが強い。そんな逆風の中で、どうやってキンコーズならではの強みを伸ばすか、サービスの向上とスピードアップをいかにして実現するか、という課題に挑戦しているところです。

もう1つの役割・使命は、「コニカミノルタ・グループの先兵となって、どこまでグループの繁栄に貢献するか」です。キンコーズ・ジャパンは2012年にフェデックスから離れ、コニカミノルタの子会社になりました。コニカミノルタの名を聞くとカメラのイメージが強いかもしれませんが、実はコピー機をはじめとするプリンティング・デヴァイスの大手メーカーです。

オンデマンド・プリンティングをコアとするサービス事業を展開しているキンコーズ・ジャパンは、単体で業績の向上を目指すだけでなく、オンデマンド・プリンティングの製造設備であるコピー機の価値を、サービスやソリューションと絡めて高めていくアプローチでも成果を上げなければいけない。そう考えています。サービス、ソリューションというソフトの向上を、どうやってハードの分野に波及していくのか。それを必死で考え、トライし始めているところです。

[3]小中学生時代はどんなお子さんだったのでしょう?

小学生の頃は優等生でした。1年生の時からずっと柔道をしていましたので、喧嘩などはありませんでしたが中学、高校と進んでも「腕っぷしの強いヤツ」という風に恐れられていたと思います(笑)。小学5年生の時に生徒会長になりました。 中学に入ると少しグレました(笑)。それでも先生たちに推挙されて生徒会長になりました。小学校では自分からなりたくてなったのですが、中学では「やれ、と言うからやる」という調子でした。高校でも生徒会長になりましたが、気持ち的には中学時代と同じでしたね。

[4]高校、大学時代はいかがですか?
リーダーシップの芽生えのようなものはあったのでしょうか?

地元の岐阜県では県立岐阜高校がナンバー1のエリート校なのですが、そこにギリギリの成績で入ることが出来ました。ギリギリだという自覚と焦りから(笑)、必死で勉強しました。そのおかげで入学できた大学ではスキーのサークルに入り、年に100日は滑っていたと思います。リーダーシップの芽生えについては、今振り返ってみれば、本当の意味でのリーダーシップを当時は持ってなかったと思っています。

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