[1]自己紹介をお願いします。
私はもともと伊藤忠で鉄鋼部門の国内での仕事に従事していました。やがて「海外に行って働きたい、という気持ちがあったから総合商社に入ったのに」の思いが膨らみ、社内の留学制度に立候補したんです。望みは叶い、ニューヨークのNYU Sternへ留学し、修了後はテキサスの地で鉄鋼の仕事に携わることもできました。
しかし実際に経験してわかったのは「日本とアメリカだから言葉の違いはあるけれども、結局やっている商売は日本の時と変わらない」ということ。残念な気持ちになりましたが、同時に小売業というものへ関心が傾いていきました。アメリカに住み、生活をする中で米国のスーパーやホームセンターなどの流通・小売業を見ているうちに商社のビジネスチャンスがそこにあるのではないかと思うようになったんです。「やっぱり商売の基本は小売。これからは商社も直接リテイル・ビジネスに乗り出していくべきだ」と考え始め、妻の買い物について行ったりもして自分なりの学びも開始しました。
そうして最終的には伊藤忠による新規リテイル事業を提案するところまでいきました。実はこの時、米国オフィス・デポとの提携話が浮上していたのですが、結局は他社に先を越されてしまいました。今思えば、ずいぶん前から今の会社とは縁があったことになります。
そんな折も折、ハンバーガーショップを展開する企画の相談がありました。いろいろと吟味をし、勉強をしていくうちに「自分でやろう」と思い立ったんです。いずれは事業のオーナーになるべく、まず雇われ店長から始めようと考え実行したのですが、この直後、PwCからも引き合いが来て、コンサルティングの仕事にも同時に携わりました。かけもちで2つの仕事を忙しくこなしていたものの「明らかに向いてないぞ」と考え始めた頃、アスクルの経営陣に加わる予定の先輩から誘いをいただき、入社を決めました。
在籍期間は約4年半。入社後半年で執行役員に就き、CRMを活用してお客様の声を経営に生かしていく取り組みなどを進めていきました。入社した当初のアスクルはまだ売上200億円程度の会社だったのですが、4年半が経った頃には1200億円を超えていました。達成感のようなものを得ていたのは事実ですけれども、トップとの意見の相違などから退職をしたわけです。
そこから約1年半は仕事をまったくしていませんでした。のんきな話ですが、身体を鍛えることに夢中になり、他にはせいぜい子どもの学校の送り迎えや留守番をするような毎日。そんな生活が変わったきっかけは、伊藤忠時代から親交のあった澤田貴司さんでした。リヴァンプを立ち上げる直前の澤田さんから連絡があり、その最初の案件として手がけるカクヤスとのマインマートの共同買収案件に参加しないか、と言われたんです。結局、この話はいったん流れたのですが、これが縁となり、カクヤス現社長の佐藤順一と面談することになり、「暇なら来れば?」という(笑)打診を受けたわけです。
「この会社の状況をブラブラしながら眺めてくれればいいですよ」という、とてもおおらかな進言をいただきつつ、本当にただただ眺めていたら、カクヤスという会社の大きな可能性と共に、「できていないこと」というのが数々見えてきて、気がついたら渦の中に吸い込まれるように経営の仕事の一翼を担うようになっていました。「ここをこう変えるべきです」と、ストレートにものを言う私を受け入れてもらい、本当に感謝しています。
日本のオフィス・デポに身売話が出ていることを知ったのはアスクル時代の部下からでした。すでに業界トップの地位についていたアスクルと違い、当時のオフィス・デポはひどい状況でした。というよりも、日本では15年間一度も黒字になっていなかった。しかし、そんな会社がカクヤスの持つデリバリー・ネットワークや人的資産と融合したら、独自の成長があり得るのではないか、という発想が私の中に生まれました。そうしてM&Aを実現し、今日のオフィス・デポ・ジャパン(以下ODJ)に至っているというわけです。
[2]現在のご自身の役割について教えてください
この業界ではアスクルが圧倒的に強く、それを2つの企業が追う状況が続いています。ODJの位置はというと、彼らのさらに遥か後ろにいる。当然、先を行くライバルとの勝負に打ち勝っていく必要がありますし、一方でAmazonのような異分野からの参入組もあります。米国ではすでにBtoB市場でも成功を収めているこの強大な企業が、日本でもBtoBを強化しており、市場での競争はさらに激化が予想されます。
ですから、私の役割はODJをいかに勝てる集団にするか、です。カクヤスが保有するネットワークや人的資産を独自の強みとしてどれだけ活用できるか、という点も問われてくる。同時に例えばAmazonのような同業者に対し、商品を卸す立場になってパートナーシップを結ぶケースも出てくる。乗れる話には乗るし、避けるべきものは避ける。そういう柔軟性も備えながらODJを戦える集団にしていくことが私に求められていると思います。[3]小中学生時代はどんなお子さんだったのでしょう?
ずばり「意気地無し」でした(笑)。勉強でも運動でもたいしたことのない弱虫な子どもだったんです。ただ、中学時代にケンカで負けたのが悔しくて、それをきっかけに空手の通信教育を受けるようになりました。この空手との出会いが、その後の私を大きく変えていきました。[4]高校、大学時代はいかがですか?
リーダーシップの芽生えのようなものはあったのでしょうか?
すっかり空手の魅力にハマってしまったので、学校というものへの関心がなくなってしまいました(笑)。高校時代も生活の中心は極真会館の道場通い。早稲田大学への進学を決めた理由も空手(笑)。実は早稲田大学の学内に極真会館の支部が置かれていたんです。「入るならここしかない」と(笑)、迷わず決めました。
実は就職でも空手との縁が続きます。そもそも伊藤忠の入社面接の担当官が極真空手の大ファンで、「それが決め手となって入社できたのに違いない」と思います。ともあれ、私は社会人になって以来、今に至るまで、空手の試合に臨むのと変わらない気持ちでビジネスに取り組むようになりました。空手に限らず、他の武道やスポーツでも「勝ちたい」の気持ちだけでは勝てません。「どう勝つか」を考え、組み立て、実行する。その習慣が伊藤忠やアスクルにいた時代は特に役立ち、私の思考・行動パターンになっていったんです。[5]ご家族やご親戚に経営者はいらっしゃいますか?
祖父も父も、下町の足立区で創業した町工場を経営していました。まるで映画『ALWAYS三丁目の夕日』のような環境で私は育ったんです。ただし、経営者の孫であり子であることが、経営者としての私に何か強い影響を与えているかというと、それはないと思います。そのかわり、父に言われた「やりたいことをやれ」という短い言葉は、ずっと私の胸に刻まれています。
父自身、工場を継ぐつもりはなく、医者を目指していたのですが、家の事情もあって工場の経営を引き継いだ人。だからでしょうね、「ああしろ、こうしろ」と意見してくることがまったくなかった。「自分のことは自分で」を徹底していた父親のもとで育ったことが、私の心を今も強く後押ししてくれていると感謝しています。