[1]自己紹介をお願いします。
大学で数理物理学を専攻していた私は、好きな数学を一生の強みにしていこう、と考えていました。しかし、数学はあくまでもツールです。はたして大学院に進むべきか、社会に出るべきか迷っていたのです。
あるコンサルティングファームのスプリングジョブにも参加してみたものの、周囲の人たちがあまりにも自分とは違う種類の「目立ちたがり」な人間に見えてしまいました。ただ、ここで味わった違和感が一つのきっかけになりました。実業の世界で鍛えられることによって、きちんとコミュニケーションができるようになりたい、と思うようになったのです。
では、どこに行けば望みが叶うのか? 当時の私がなんとなくイメージしたのは「銀行か商社」。そうした経緯で富士銀行への入行が決まりました。入行後は、店舗での窓口業務や法人営業などをこなしていくうちに「もっと大きな仕事がしたい」という渇望感から、海外留学制度に応募しました。
留学先では有意義に学ぶことができていたのですが、在学中に日本では銀行の統合が相次ぎ、富士銀行もみずほフィナンシャルグループへと変わりました。正直なところ、「帰るべき場所がなくなってしまった」というような喪失感を味わい、同時に合併に膨大なエネルギーを費やしているうちに伸び盛りの30代という大切な時間が得るものなく過ぎ去ってしまうではないかという不安も感じました。
そのような中で、キャリアを最速で構築して多様な経験が得られ、またビジネスをスピード感をもって行えるスキルが身につけられる環境を模索するようになり、入社を決めたのがアクセンチュアです。
アクセンチュアでの日々は刺激的でした。錚々たる企業のお客さまから人月単価数百万円のフィーを頂戴して、特筆すべき経験もない青二才が戦略論をぶつわけですから、それはもう無理の塊であって当然です。会社の歴史や人の気持ちというものを理解する前に机上で考えたあるべき論を正面突破でお話しして軋轢を生まないわけがないですし、その軋轢がポジティブな影響を生まなかったことも多々ありました。
しかし、私個人にとっては、前向きなエネルギーに満ち溢れた切れ味鋭いビジネスリーダーの方々にお会いして、その背中を間近で拝見できたことは、この時期に無茶な生活をしたがゆえに得られた私の大きな財産だと思います。
ただ、いつまでも学ばせてもらうだけが私の目標ではありませんでした。「実業で腕試しがしたい」という思いが膨らんでいく中、出会ったのがGEです。この一大コングロマリットであれば、金融分野を入口にして実績を重ねていくことで他の仕事に出会うことも可能と考えて、GEコンシューマー・ファイナンスへと転職をしました。
GEならではの様々な経営フレームワークが用意された環境で、経営手法の真髄の一形態を見させていただいたことは大きな収穫でした。ただし、外資系企業のローカル・オフィスならではといえるある種の限界や違和感も味わいました。
私を取り巻く状況が動いたのは、新生銀行グループによる買収がきっかけでした。これを機に、私は企画担当役員を任されました。それ以来、会社の進むべき方向、事業を再成長に導く道筋、社員の位置づけなどを自分なりに考え、それを当時の社長に直接ぶつけて議論をしていく日々。その繰り返しから、いっそ自分で決めて責任をとらせていただきたい、と考えるようになったその時に、現在の社長のポジションを任されることになりました。
[2]現在のご自身の役割について教えてください
会社というものの存在意義は、社員という参加者が事業をつうじてやりがい・生きがいと報酬を得ることだ、というのが私の信念です。その中での私の役割は、社員の皆さんが実力をフルに発揮して、やりがいと報酬を最大化させるためのお手伝いをすることです。力を持て余している人がいればチャンスを差し上げますし、悩んでいる人がいればその悩みの解決に手を差し伸べます。
また、迷いなく力を発揮していただくために、会社の進んでいる方向や、リソースを投入すべき力点などを明確に示すことも私の重要な役割だと考え、実行しているところです。[3]小中学生時代はどんなお子さんだったのでしょう?
私の記憶が確かならば、小学校から高校に至るまで、ずっと級長をしていました。勉強も運動も遊びも、とにかく何をやらせてもそつなく上手にこなす子だったように思います。ただ、通知表には必ず「リーダーシップがもっとあれば」というような文章が添えられていました。忘れられないのが小学4年生から6年生まで担任をしてくださった井上先生。この先生が繰り返し私に言っていたんです、「杉江、もう一歩前に出ろ」と。この言葉が今もずっと私を鼓舞してくれているように思います。
一方、中学では通った最寄の学校がおそらく皆さんがテレビでしか見たことがないような体罰教育を実施していたため、知らぬ間に反骨心が自分の中に育っていきました。教師によく殴られたのですが、ものの例えではなく、右の頬を殴られたら本当に左の頬を差し出していました(笑)。「よくできた子」と言われているようで「あと一歩、前に出るのが苦手」でありながら、理不尽なことには反骨心をむき出しにするような、そういう少年だったはずです。
このときに一緒に、というより私以上に体を張って理不尽に向き合ってくれた無二の親友とは、生きる道は異なりますが、今も変わらぬソウルメイトで、会うたびにいつも私の原点のいろいろな部分を思い出させてくれます。[4]高校、大学時代はいかがですか?
リーダーシップの芽生えのようなものはあったのでしょうか?
高校、大学時代は、飛び抜けた優等生でもなければ劣等生でもない、いわゆる普通の学生生活をしていたと思います。ふとした機会に祖父に進学先を相談したところ、「良い学校は山ほどあるからどこだっていいが、頑張れない自分を学歴のせいにだけはするな」と言われて目を覚まし、将来に後悔しないように受験はそれなりに頑張りましたが、それでも何か突出した経験をしたわけではありません。
大学では小学校6年生から続けていた軟式テニスのサークルで主将を務めました。前述の井上先生の言葉を思い出し、一歩前に出て自分なりにリーダーシップを発揮したつもりになっていましたが、今振り返れば自分中心で独りよがりなお山の大将でした。皆のためにチームが強くなれるように奮闘した気でいても、本音は「強いチームでカッコよくテニスがしたい」だけだったのです。思い出すたびに恥ずかしくなります。