[1]自己紹介をお願いします。
私の学生時代は高校から大学までラグビー一色に染まっていました。子供のころから「モノを作る」ことが好きで進んだ建築学科ですが、ラグビーに4年間どっぷりと浸かり、まともに建築の勉強をしたのはその後の1年間だけ、というのが本当のところ。
しかし、いざまともに勉強し始めると建築の世界は非常に面白く奥深かったので、しっかりと学ぶべく早々に大学院に進学することも決めていました。そんな時期、一足先に社会人となり、リクルートへ入社していた学生時代の友人から「リクルートという会社は面白いぞ」という話を聞きました。
今でもリクルートは大企業としては元気のいい社風ですが、当時はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで劇的に拡大成長していました。聞けば、入社3年目の社員が250億円もの予算を任され、不動産開発プロジェクトを動かしているとのこと。また、社内で会う人会う人みな魅力的で輝いていました。私は大学院進学を直前でとりやめ、リクルートへの入社を決めたのです。
リクルートではのびのびと仕事を任せてもらいました。入社後1年ほどして不動産開発のプロジェクトを担うようになった頃、海外留学制度ができました。大学院で建築を学ぶ予定だったところを急遽変更して入社した私でしたから「よし、今度こそしっかりと海外の大学院で建築を学び、それを仕事に活かしていこう」と考えたわけです。
プロジェクトの関係もあり1年間で帰ってこいと言われていましたが、海外で建築学修士をとるには多くの場合2~3年がかりで、1年で取れるようなプログラムはありませんでした。調べるうちに、MBAという修士が1年で取れるコースがあるということがわかり、「ビジネスを勉強するのも役に立つかも」という程度の気持ちで留学しました。海外に住んだこともなく、ビジネスの基礎を学んだこともなかったので留学先のUSCでは最初大変でしたが、やがてビジネスが実は面白いことに気づきました。
ボストン コンサルティング グループ(以下、BCG)への入社も、リクルートと同様に人との縁がきっかけでした。当時の私は、コンサルタントというのは学者のなりそこないがなるものだ、という勝手な先入観を抱いていたのですが、高校時代のラグビー部の後輩から「BCGは最高ですよ!」と聞かされ、「じゃあ、ひとまず会ってみるか」となったんです。
そうしてお会いしたのが当時プロジェクトマネジャーだった水越豊さん(現BCG日本代表)。面接というよりも、ラグビーの話ばかりしていたのですが、ざっくばらんな人柄とシャープな頭脳に魅了され「学者のなりそこないが......」的な先入観がきれいに吹き飛び、最終的に転職を決めました。
BCGでは鉄鋼からエンターテイメントまで幅広い業種のありとあらゆる問題解決を経験しました。どの案件も私にとっては学びの連続で、得難い貴重な体験ばかりだったのですが、その中でも「消費者をいかに理解するか」に強く惹かれるようになりました。
消費者という生き物は、はっきりいってその行動に一貫した論理性がなく、予測不可能と言ってもいいぐらいです。それでも、あきらめずにしつこくしっかりと理解しに行くとやがて、「なるほど!」という気付きにつながり、その「わかりにくさ」そして「わかった」時の快感にはまっていきました。
こうしてBCGには15年在籍し、パートナーも務めたのですが、気持ちの中には多くのコンサルタントが抱くであろう思いが常にありました。それは「企業経営のドクター」であるコンサルタントは、ややもすると患者さんをいつまでも入院させたがるきらいがあるということ。
もちろん「企業に信頼され、長年のパートナーシップを結んで、ともに変革を......」という文脈で捉えればポジティブなことではあるのですが、本来ならばドクターは患者を完治させ、健康を自己管理できるようにして退院していただき、病院から送り出すべきではないか、という思いがあったのです。
こうした考え方がアリックスパートナーズ(以下、アリックス)の企業ターンアラウンドに臨むうえでの"When It Really Matters"(意訳すると、「企業の死命を分けるときなら、アリックス」という感じ)という理念と共通していることに気づいたことで、次の転職につながっていきました。西浦裕二さん(元アリックス日本代表)には以前からお話をいただき、いつかお仕事を一緒にさせていただきたい、という願望もありました。
マースとの出会いもアリックスを通じてだったのか、とよく聞かれますが、そうではありません。またしても人を通じたご縁でした。あるかたから「マースのアジア・パシフィック リージョナル プレジデントに会ってみないか? 非常に面白い人だから」と声をかけられ、それがきっかけでマース ジャパンに来ることになったのです。
リージョナル プレジデントのジョン・イン デ ブラックはアジアを任される以前、アメリカでCFOを務めていた人物です。それを知った私は、彼と会う前「きっと数字を駆使して話す、頭のキレる人なんだろうなあ」などと想像していたのですが、会って話をしてみたら数字の「す」の字も出てきませんでした(笑)。
一言でいうならば、パッションをもった熱い人。アジア・パシフィック・マーケットが持つ可能性、そしてその中で日本が果たせる役割の大きさを心から信じていて、そこでの成功を心の底から望み、熱く語りかけてきたのです。まだ一度も直接的に経営という仕事を直接手がけたことのない私のことを、こうも熱く望んでくれたことで大きく気持ちは動きました。
全世界で愛されるブランドをいくつも持っているグローバル企業でありながら、全社員をアソシエイトと呼んで平等性を徹底している点や、グローバルのプレジデントにも個室がなく、会議室もすべてガラス張りというオープンさにも共感を覚え、日本における社長というオファーを引き受け、現在に至っています。