[1]自己紹介をお願いします。
私が1992年に新卒で就職したのはアンダーセン・コンサルティング、現在のアクセンチュアでした。外国語ができるわけでもなく、IT技術に精通しているわけでもなく、簿記の基礎さえ学んだことのない私が、外資の、しかも会計事務所の流れをくむファームに入社した理由はただ1つ。
「どうせ何も知らないのだから、それなら会社として最も上流にある経営を"学びながら成果を出していける"環境がいい」という考え方から。そのためにはアクセンチュアこそが理想の環境だと感じたからです。
事実、私の期待は間違っていませんでした。入社後の一定期間は、わからないことばかりで悪戦苦闘を繰り返しましたが、働きながら学び、学びながら働くうちに、企業経営に関わる様々な領域について一定の理解をし、成果を出していくことができたのです。
当時の日本は、バブルがはじけた後の残り火のようなものがくすぶっている状況にありましたが、そんな中、大手企業の間では経営の効率化を目指す変革アプローチが相次いでおり、私は主に製造業の世界でこうしたプロジェクトを体験していきました。
一方、アクセンチュアでは社内トレーニングが充実しており、私もプロジェクトの合間にアメリカで実施されたプログラムに参加する機会を頂き、日本とは異なるビジネスの最前線を肌で感じつつ、新たな学びの機会も得ることができました。
とりわけ心に刺さったのがマーケティングという領域でした。アクセンチュアですごした数年間で「経営に関わる一通り」をみてきた私でしたが、マーケティングだけはきちんと学んだことがありませんでした。それまでは色々な要素が絡む複雑なものに見えていた経営というものをとても的確に捉えることができる、ポジショニングをはじめとするマーケティングのシンプルな発想法に衝撃を受けたのです。
「こんな考え方があったのか」という新鮮な驚きは、すぐに強烈な魅力へと変わり、「もっと学びたい。実践の中から学びたい」という願望を膨らませていったのです。
そして帰国後、マーケティングに傾倒し始めていた私の目にとまったのがP&Gジャパン(以下、P&G)の人員募集でした。アクセンチュアでの仕事にはやりがいを感じていたものの、そもそもこの会社に入る時も「未知であった経営の領域を、働きながら学ぶ」のが目的だったわけです。「マーケティングを学ぶのならばP&Gほど最適な環境はない」という評価は当時すでに日本でも定着していました。ですから、新たな学びを求めて転職を決意したのです。
ただし、P&Gという会社は「中途入社した者の前職や経歴がどうであろうと、全員が一兵卒からスタートする」というルールが機能しているところです。アクセンチュアのマネージャー職を辞してP&Gに行けば収入も減るし、立場も1メンバーへと変わる。勤務地もまた神戸へと変わる。当時30歳だった私には妻もおり、2歳の子どももいましたので家族には申し訳ない気持ちにもなりましたが、結局転職する意志は変わりませんでした。
入社してみると、P&Gには期待以上の環境がありました。実際のビジネスの現場でもしっかりしたセオリーや制度に則って事を運ぶ風土が浸透していたため、経験を重ねれば重ねるほど、「実戦で勝つためのマーケティング」というものを身につけることができたのです。
ビジネススクールでも「学ぶ」ことはできたでしょうけれど、やはり学校で学ぶのと、戦いの最前線で学ぶのとは違います。しかもビジネススクールに行けば、お金を払わなければいけないけれど、P&Gならば給料がもらえます(笑)。
そうして学びながらブランドマネジャーとなった私は、ファブリーズ、プリングルズ、パンパースなどを担当していきました。それぞれまったく異なる領域の商品ブランドです。担当ブランドが変わるたび、新しいカテゴリーに浸透している独自の価値観や市況を覚えていく必要に迫られはしましたが、その経験が後々の私に活かされていったのです。
また、たとえばプリングルズ担当時は、大きな予算を預かることができませんでした。当時のP&Gが最も得意としていたマス・マーケティングで市場に訴えかけていくような手法をとることは不可能です。低予算のもと、一撃必殺のマーケティングによって突破口を切り開いていく必要があった。難易度の高いチャレンジになりました。しかし、このときの体験が私にとって貴重な財産となっていきました。
アクセンチュアで約7年半、P&Gで約6年半をすごした私が次に転職をしたのは、ジーンズのリーバイ・ストラウス・ジャパン(以下、リーバイ・ストラウス)です。転職をした最大の理由は家族のためでした。私のわがままで神戸へ引っ越すことになったわけですし、そろそろ住み慣れた関東に戻ろう、という気持ちからでした。
ただ、リーバイ・ストラウスのマーケティング姿勢は、まさに「低予算で効率よくブランド価値を引き上げていく」というものでしたから、商品カテゴリーは違うもののプリングルズで経験したことが大きな助けになりました。
3年ほど経過し、満足のいく成果も上がっていくと、私のもとには社長や副社長に就任しないか、というお誘いがヘッドハンターからちらほら届くようになっていきました。マーケティングの仕事ならではの醍醐味を堪能してはいましたが、もともと「いずれは経営者に」という発想があった私ですから、次なるキャリア・ステップを意識し始めたタイミングでもありました。
そんな矢先にリーバイ・ストラウス社内で「シンガポールへ転勤してアジア市場の戦略を担って欲しい」という話が出たのです。しかも単身での赴任ということでもありましたから、家族と一緒にいたい私はこの申し入れをお断りし、本気で転職をする決意をしました。
いただいていたいくつかのお誘いの中で、特に魅力を感じていたモルソン・クアーズ・ジャパン(以下、モルソン・クアーズ)への入社を決めたのです。
「なぜモルソン・クアーズだったのか」といえば、先代社長がとても魅力的な人だったから。物事をストレートに語り、裏表なく腹を割って話してくださるかただったんです。入社後、副社長となってトップを支える役目を担うことになっていましたから、「この人のそばで社長業を学びたい」という気持ちになり、入社しました。
日本のモルソン・クアーズは、当時ZIMA(ジーマ)だけを主力商品としていたのですが、なかなか売上を成長基軸に乗せることができていませんでした。一見するとマーケティング活動としては正しいことをしているように見えましたが、私にはブランドのポジショニングと販売チャネルが一致してなく、むしろブランドポジショニングを弱めているように見えました。
なので、ブランドポジショニングとチャネル戦略を合わせればジーマは再び売れるようになる、単純にそう考えたのです。「真理は常にシンプルなものだ」。ジーマはその翌年から二桁増で成長し始めました。また、同じ営業マンが同じお取引先様に営業に行くのにジーマ1本だけでいくのはもったいない。「ジーマと相乗効果のある、すでにブランド価値を確立している別の商品と一緒に売っていくとさらに効率があがるのでは」という、いたって単純明快な発想が当たりました。
「ラッパ飲みできるオシャレなビール」の代名詞ともいえるくらいブランドが浸透していたコロナ(Corona Extra)の日本における販売権を獲得し、コロナとZIMAを抱き合わせで営業していった結果、ジーマの成長と合せて利益を3倍にまで引き上げることができたのです。
この直後、先代社長が退任することになり、私は社長に選任されました。