[1]自己紹介をお願いします。
私は子どもの頃から学生時代を通じてテニス一筋ですごしました。大学4年生の夏のインカレに出場するほど打ち込んでいましたので、就職活動のプライオリティは低かったと言えます。入社させていただいたNTTでは、ちょうどグループをあげて通信のデジタル化を進めている時期でした。その潮流下、本来技術部門にいたエンジニア職の諸先輩も営業の最前線に配置転換されていました。
私の気持ちをとらえたのは、先輩たちの姿勢の違い。「エンジニアが本職だけれども、成果を上げよう」という前向きなかたも多かったのですが、一方でモチベーションの低い人もいました。「どうすればこういう人のモチベーションを上げることができるんだろう」と率直に思い始めるうちに、会社経営というものへの関心が高まっていったのです。「学びたい」という気持ちが高まった結果、人事にかけあい、ビジネススクールへの留学制度に応募を試みました。
しかし、まだ入社2年目で現場での実績も少ない私ですから、そう簡単に希望は受け入れてもらえません。人事からは「前例がない」と突っぱねられ、粘ってもすぐに願いが叶う確率は低いだろう、と考えました。とはいえ、留学をあきらめたわけではありません。会社に残って留学志願が受け入れられるのを待つのではなく、会社を辞めて私費で留学しようと決意したのです。
ところが、ビジネススクールは基本的にそれなりのビジネス経験を持つ人たちが、経営の勉強をするために集まってくる場です。実務経験を多く持たない私は、私費での入学志願においても苦労をしました。どうせ入学するならば世界でもトップランクの学校に入りたかったのですが、職歴わずか2年の私を受け入れてくれないところもありました。それでも運よくコーネルのジョンソンスクールに入ることができました。入学後も基礎のない私は高度なカリキュラムについていくのに苦心したわけですが、とにかく食らいついていきました。
やがてサマーインターンの季節が来て、修了後の道を考えるようになりました。ビジネススクールで学ぶうちに「いずれは経営者に」との気持ちも強まっていましたけれども、まだまだ弱冠26歳ですし、今の自分ではまだ修行が足りていないという自覚もありましたから、「修了後はさらに経営について学んでいけるような職場に」と思いコンサルティングファームを志望しました。
この時もビジネススクール選びの時と同様に「どうせ入るのならばトップクラスのファームがいい」と考えましたがまたも次々に扉は塞がれていきました。理由は同じ。「きみは職務経歴が少なすぎる」というわけです。そんな中、一縷の望みをくれたファームがベイン・アンド・カンパニー(以下、ベイン)でした。最初は、よそと同様の理由で断られそうだったのですが、お会いしたパートナーが「でも、きみは面白そうだし、根性もありそうだな。もしも通常のコンサルタントよりも一段下のポジションでもいいというなら、来てみたらどうだ」と言ってくれました。
喜んで入社を決めたものの、いざベインに入ってみれば、新卒入社3-4年目くらいの者が担うアナリストの身分。当然、同年度ビジネススクール卒業の仲間よりも地位も報酬も低かったのですから、正直悔しく思いました。ただ、地道な諸雑務も含め、何から何まで自分でやる日々を経験したことが、後々の私の仕事に活きました。入社1年半ほどでコンサルタントに昇進し、周囲に追いつくことも出来ました。その後の2年間は夢中になってコンサルティングの仕事に没頭しました。気がつくと心の中に「自分で答えを出すだけでなく、それをもとにして自分で走ってもみたい」という願望が膨らんでいました。コンサルタントの経験のあるかたなら、この気持ちがわかるはずです。
ちょうどその頃、カルチュア・コンビニエンス・クラブがTSUTAYAの次世代を担うリーダー候補を探している、という話をいただき、転職を決意しました。当時はまだまだフランチャイズによる実店舗での収益が圧倒的だったTSUTAYAで、オンライン事業を軌道に乗せるというチャレンジは非常に面白く感じました。ですから入社早々、ベイン時代同様のスピードでガンガン仕事を進めていこうとしたのですが、振り向くと誰もついてきていない(苦笑)。「そうか、コンサルティングファームでとっていたような動き方では駄目なんだ」「どうすればメンバーの皆が一緒に頑張ってくれるだろう?」と思い直し、チャレンジを続行していきました。
一方、社内にはオンライン事業を快く捉えていない勢力の存在も当時はありました。当然といえば当然ですが、これまでフランチャイズモデルで大成功した企業ですから、中にはオンラインの台頭を「社内にいる敵対勢力」と見る人もいたのです。こうした勢力を説得していく必要もありました。非常にタフな仕事ではありましたが、正直な気持ちを言うと「面白い」と思っていました。コンサルタントだけを続けていたら出会うことのなかった社内ポリティクスや組織論と向き合うことになり、それが新鮮な学びにつながっていったのです。
「この人はこういう順序で口説くのがいい」「この人にはここまでは言っていいけど、それ以上言ったら大変なことになる」というように対策を考えながら進めていきました。こうして様々なトライを続けた結果、オンライン事業は一定の成果を上げることができました。その頃合いを見計らっていたかのように、ベインから声がかかったこともあって、私は再度ベインに戻りました。
私にとって2度目のベインは、1度目よりもいろいろな意味でうまくいきました。社員の投票で選ばれる社内表彰で賞をいただいたり、クライアントとのコミュニケーションの質が自分でもわかるくらい向上して、案件に関係のない相談事もしていただけるようになっていきました。復帰1年半でマネジャーに昇格できました。満ち足りた気分で仕事をしていましたし、ベインではマネジャーからパートナーになるまでに通常数年かかりますから、キャリア的にはここでじっくり力をためて、と考えていた矢先、カルチュア・コンビニエンス・クラブ時代の先輩から話が来ました。「楽天が執行役員候補を探している」というのです。そして「きみがその気なら三木谷さんに会わせるよ」とも言ってきます。「じゃあ会ってみようかな」ぐらいの気持ちでお会いした。これが私にとっては大きな出会いになりました。
ストイックで真面目で本気で世界一のインターネットサービス企業を目指したいと語る三木谷から、楽天グループのビジネスの話を聞き、経営陣としての参画を打診されているうち、気持ちが前向きになっていきました。ベインでの仕事に満足していても「自分で経営を」という長らく胸に抱えていた志はありましたし、「やるなら思う存分やりたい」との考えもありましたから、思い切って三木谷にストレートに言いました。「役職や報酬は全く気にしませんが、自分のPLとBSとキャッシュフローを持たせてもらえますか」と。すると、三木谷は笑いながらこう返事をしたんです。「うちには進行中の事業が40くらいあるから、好きなものをやればいい」と。驚きました(笑)。そして気持ちは固まりました。
ただし「好きなものを」という話でしたが、M&A成立直前だったフュージョン・コミュニケーションズ(以下、フュージョン)を任されることになり、そのまま今に至っています(笑)。2007年当時のフュージョンは厳しい状態でした。「どう思う?」と三木谷に聞かれ「難題はたくさんあります。でも、こうしたらいいんじゃないでしょうか......」と答えたら、「じゃあ頼む」と(笑)。
経緯はともあれ、やると決まれば後には引けません。このフュージョンを立ち直らせることができずに、のこのこ楽天に帰る気持ちなど毛頭ありませんでした。その気持ちは包み隠さずフュージョンの仲間たちにも伝え、一緒に必死の思いで走り出しました。当初、楽天内部では「相木くん大変だね」といった反応で遠巻きにされていましたが(笑)、早期に黒字化を達成すると「どんなマジックを使ったの?」と認めてもらえるようになりました。そうして2011年以降は、フュージョンの他に複数の楽天の事業も任せてもらっています。
[2]現在のご自身の役割について教えてください。
現在私が任されている事業は、電話事業(フュージョン)、リサーチ事業(楽天リサーチ)、メディア事業(インフォシーク、楽天レシピ、楽天ブログ、楽天写真館、楽天ウーマン、等)、ウェディング事業(楽天ウェディング)、マリッジ事業(オーネット)、みんなの就職事業(みんなの就職活動日記)の6つです。役割は明快。この6つの事業価値を最大化すること。そして同時に、グループ内の各事業とともに形成している「楽天経済圏」の成長・進化に貢献していくことです。[3]小中学生時代はどんなお子さんだったのでしょう?
勉強については、「そこそこ出来る子」という程度でした。スポーツは何でも好きでした。そしてスポーツ以外にも将棋とか、やってみて面白いと感じたものに次々と没頭していきました。そして、小学校を卒業する間際に出会ったテニスには、ずっと打ち込んでいくことになりました。[4]高校、大学時代はいかがですか?
リーダーシップの芽生えのようなものはあったのでしょうか?
中学では軟式テニス部に入って、北海道のチャンピオンになりましたが、高校からは硬式テニスに転向しました。とにかく熱中して頑張ったのですが、インターハイに出場できず悔しく思ったりもしていました。
大学の進学先も判断基準はテニスです(笑)。当時の大学テニス界では「日本で最も厳しいテニス部」と言われ、プロ選手も輩出していたのが明治大学だったことから、ここへ進学し、もちろん体育会テニス部に入りました。
大きな大会に出場して戦績を上げることもできましたし、充実した大学時代だったと思います。私は率先して周囲を仕切っていくような人間ではなかったので、自分からキャプテンに立候補したことはありませんが、結局周りから推されるかっこうで、中学、高校、大学とキャプテンを務めてきました。当時の私にどの程度のリーダーシップがあったかはわかりません。それでも、何事についても目標を立て、その達成のために計画を組んで実行していく人間だったことは確かです。テニスを通じて責任感や達成意欲、協調性といったものが育っていったことは間違いないと思います。