[1]自己紹介をお願いします。
マサチューセッツ工科大学(MIT)にいた私は、そのままアメリカでの就職を考えていましたが、当時リクルートが理系採用と留学生採用をスタートさせて米国で人材を探している過程で私にもお声がけをいただきました。私は中学時代から海外に住んでいたので、日本のリクルートという企業がどんな会社なのかも知らなかったのですが、社名からいろいろな就職情報を持っていると思いましたし、「お寿司を食べながら話をしましょう」と言われ、食事に釣られて会いに行きました(笑)。実際にお会いしてみると、リクルートでの採用のお誘いで、「次はロサンゼルスでトップとお話をしませんか」と言われ、今度はロサンゼルス行きに釣られてしまいました。
当時のリクルートは急成長の真っ最中でしたが、ロスに行くと江副社長をはじめとしたそうそうたる顔ぶれが待ち構えていて、一学生にとっては強烈な印象だったのを覚えています。年末を控えた時でもあり「お正月も来ることですし、よかったら次は日本でお会いしましょう」と誘われ、今度は日本行きに釣られてしまいました。いざ、日本でリクルート本社へ行ってみると、急成長をしている人たちの放つ熱気がとても新鮮で魅力的に映りました。実はすでに防衛関係やIT関係などの大手グローバル企業数社から内定も頂戴していたのですが、これを機にリクルートへと気持ちが一気に傾いていきました。
周りからは「MITで修士まで取って、博士課程にまで進んでいるのに、電気工学とも情報工学とも特に関係のない日本のベンチャーに入るのはもったいない」と反対されましたが、私自身はそういったこだわりはありませんでしたし、新しいことにチャレンジできそうなリクルートを気に入ってしまいました。それに、いかにも日本企業らしい家族的な雰囲気もありながらも、異分子を認め合う風土もあり、日本に11年ぶりに戻るには最適な会社だと思い、入社を決めました。
リクルートはお客様とダイレクトに向き合う営業の仕事に最も力を注いでいる企業です。私も一応技術職として入社したものの、入社翌日から営業研修に出されました。今でもそうかもしれませんが、当時の新人の営業はひたすら飛び込みのドブ板営業。私の担当エリアは中央区と江東区でしたが、地図と帝国年鑑を頼りに、毎日ひたすら真夏の東京を汗をかきながら何十件も歩き回り、名刺を渡し続けました。結局最初の1ヵ月では見事に受注ゼロだったのですが、「だったらもう1ヵ月延長だ」と言われ、2ヶ月目には何とか2件の受注を上げることもでき、無事技術職に戻ることが出来ました。
当時の思いは「とにかく苦しく、地獄だ」の一点。けれども、この体験が後になって本当に役に立ちました。MITを出たエリートと言ったって、ビジネスはお客様にものを売ってこそです。この当たり前を体でとことん覚え込むことができたのは私の原体験となり、生涯の財産とさえ思っています。
その後、配属されたのは新設間もない情報ネットワークサービスの技術開発部門でした。インターネットもスマートフォンもなかった時代とはいえ、情報通信が持つ可能性を新しい事業の形にして付加価値を付けて売っていこう、という戦略的チームでした。ここでは、電話回線リセール事業の付加価値サービスとしてFNXというファックス同報サービスを企画当初から、サービスインまで担当することが出来ました。
こうした仕事の面白さを体感していくうち、経営について学びたい気持ちも高まっていき、ビジネススクールへの留学を決意しましたが、当時のリクルートには社費留学制度がまだ正式にありませんでした。であれば、退職して私費留学と思い、推薦状の依頼とともに、上司の酒井さんに相談したところ、「織畠のことだから向こうへ留学したら、きっとウチを辞めて新たな挑戦の場を求めるんだろうな」と言いつつも、「休職扱いで一部留学費補助」という形で後押しをしていただきました。
リクルートがその後、人材輩出企業としても名を上げ、「卒業」していった人たちとのつながりが新たな価値創造につながっていることは、皆さんもご存じだと思いますが、そういうカルチャーを当時から持っていた。私は今でもリクルートで数年間を過ごせたことを誇りに思っていますし、酒井さんをはじめ、優秀で厳しくも温かい上司や同僚に恵まれたことに感謝をしています。
とはいえ、上司が予想した通り、MITに再び戻った私は、次のステップを考えるようになりました。私費留学なのでまずはサマージョブの就活にも励み、花形の投資銀行とコンサルティングファームからそれぞれオファーをもらうことができました。結局、サマージョブは大手コンサルティング会社のニューヨークオフィスでやり、本採用はコンサルティングに絞って就職活動をしました。そして、声をかけてくれたところの中でも、最も魅力的だったマッキンゼー・アンド・カンパニー(以下、マッキンゼー)への入社を決めました。
強いオファーをいただいたのは、東京オフィスだったのですが、同時に「すぐに東京オフィスに来るのではなく、最初はLAオフィスからスタートしてもいい」とも言っていただき、お言葉に甘えて最初はロサンゼルスのオフィスで働き始めました。長年生活をしていたアメリカではありますが、社会人として働いたことはなかったので、一度体験してみたい気持ちもあったのです。
こうして結局1年半ほどをロサンゼルスオフィスで過ごし、3つのプロジェクトを経験した後、東京オフィスに移り、コンサルタントとして研鑽を積んでいきました。エレクトロニクスやテレコム、それにヘルスケア系企業のプロジェクトを中心に多様な問題解決を経験し、夢中になって過ごすうち、気がつくと入社から6年近くが経過して、ポジションもパートナーの一歩手前の段階にまで来ていました。
マッキンゼーではパートナーになるには、全社的な選考プロセスをたどりますが、それまでの自分のコンサルタントとしての足跡を振り返って整理する大きな節目でもあります。私もこの節目を迎えて自分の過去を振り返り、そして「自分はこれから先もコンサルティングの仕事を続けたいと思っているのか」と自問自答をしました。結論は「ノー」。コンサルティングの仕事に自信も誇りも愛着も持っていましたが、外からのコンサルではなく、自ら「ヒト・モノ・カネ」を動かしたい、新しいチャレンジをしてみたい気持ちの方が勝っていました。
お話をいただいたいくつかのオファーの中でも、特に魅力的だったゼネラル・エレクトリック(以下、GE)への入社を決めた私は、当初から経営に直結する仕事を任せていただきました。GEでは当時GEメディカルシステムズCEOで現GE会長兼CEOのジェフ・イメルトさんをはじめとして、多くの素晴らしいリーダーの方々と仕事をご一緒する機会がありましたが、最も影響を受けたのは、当時GEメディカルシステムズ・アジアCEOで後にGEプラスチックスCEO,日本GE会長を歴任された藤森義明さんです。
GEにはGEメディカルシステムズ・アジア事業開発本部長として入社、そして入社後わずか1年でGEメディカル事業でも花形であるCT事業のゼネラルマネージャーを任され、またその一年後にはメディカル事業の収益の源泉であるサービス事業のVPに昇進、さらには2年後にはGEプラスチックスへ異動して日本GEプラスチックス社長に就任、と、とにかくたて続きにエキサイティングな仕事を、しかも経営者の目線での仕事を経験することができました。
ところが、またも入社6年目に節目がやってきました。GEメディカル・システムズ・アジア時代に私の上司だったナレン・K・ガーサハニーさんが、タイコ・インターナショナルへ転職をしていたのですが、このかたからタイコ・ヘルスケア(現・コヴィディエン)の紹介を受け、「タイコでの仕事は面白いし、やりがいもある」と誘っていただきました。そうして結局、タイコへ移ることを決めたわけですが、リクルートやマッキンゼー同様に、GEは私を温かく送り出してくれました。偶然とはいえ「卒業生」を大切にする会社ばかりを歩むことができ、本当に私は恵まれていたと思っています。
タイコでの仕事は期待通り、面白いものでした。タイコヘルスケアグループジャパン社長として入社しましたが、入社2年目からは西欧と北米を除いたインターナショナルを統括するインターナショナル・プレジデント職にも就任し、非常にやりがいのある仕事だと感じていました。また、2007年にはタイコ・ヘルスケアはタイコ・インターナショナルよりスピンオフして新たにコヴィディエンという独立上場会社となり、新会社の基盤創りにも貢献することができました。
しかし、その後、グローバルのマネジメント体制を再編して、より新興市場にフォーカスすることになり、私は従来のアジアパシフィック、東欧・中近東に加えて中南米も担当する代りに日本の担当からは外れるという話になっていきました。それまでに日本の事業の成長を牽引してきた自負もありましたし、日本にいながら日本のことは見ることができなくなる。この事態を納得しかねているタイミングで、シーメンスからのお話が届いたのです。偶然ですが、このタイミングもやはりタイコ入社から6年目でした。
創業の通信事業を足がかりに、世界各国へ進出し、その後、電力・照明、電機・電子機器、医療機械・機器などに事業領域を拡大することにより、世界を代表する一大企業グループへと成長したシーメンスは、現在エナジー、インダストリー、インフラストラクチャー&シティーズ、ヘルスケアの4セクターで事業を展開しています。最大のライバル企業でもあるGEと比較されることも多いのですが、かたや米国を代表するグローバル企業であるのに対し、こちらはドイツを本社とするヨーロッパを代表するグローバル企業。イノベーションを競争力の源泉とし、そこに注力し続けているあたりは日本企業のカルチャーにも通じます。
そのシーメンスの日本支社を任せてもらえる。しかも、インダストリー、エナジー、インフラストラクチャー&シティーズ、ヘルスケアの4セクターすべての成長にコミットすることができる。これらに大きな魅力を感じて、2011年に入社して、今のポジションを続けています。