[1]自己紹介をお願いします
私が最初に就職をしたのは1991年。就職活動を開始した時期の日本は、バブル景気の只中にいました。就活生の人気が金融機関に集まる中、私自身も住友銀行(現 三井住友銀行)への入行を決めました。さして深く考えることもなく決めた部分もありましたが、4年間、営業職などに携わる一方で、国際的な仕事に将来関わることができるよう、英語の勉強などもしていました。コンサルティングファームという事業の存在をきちんと知ったのも社会に出てからでしたが、次第に魅力を感じるようになり、ベイン アンド カンパニー(以下、ベイン)に転職をしたわけです。
ベインでは約7年半を過ごしました。バブル崩壊後に混迷を極めた金融機関の経営課題解決や、経営危機に陥った企業の経営再生案件などを数多く担当する中で「自分は困っている会社の役に立てる存在になりたい」という思いが強くなりました。社会人としての将来をしっかり見据えたうえで「自分は●●になるぞ」という気持ちを、生まれて初めて確信した時期でした。コロンビアへ留学してMBAを取った後もコンサルタントとしての仕事をし続けましたが、できる限りターンアラウンド、企業再生案件に関与するようにしていました。
そんな中、少しご縁があった関係でコンパックコンピュータを合併した直後の日本ヒューレットパッカード(HP)に転職。コンサルティング会社で活躍していてもHPのような強大な企業で営業本部長が務められるというチャンスはなかなかありません。コンサルタント経験を持つ方ならわかると思いますが、やはり「いつかはPL責任を持ちながら自らの手で経営に関わりたい」という願望が当時の私にもあり、最終的に転職を決意したのです。
とはいえ、骨を埋めるような気持ちというよりは、以前から少しご縁があった企業が迎えた大きな転換期で「少しでもお役に立てれば」という意識だけで突っ走りましたから、一定の成果が出始め、新しい日本HPのビジネスが軌道に乗った後は「次の方に席を譲ろう」という考えがありました。当時の社長だった樋口泰行さん(現 日本マイクロソフト会長)からは、違うミッションで、樋口さんの右腕として経営をサポートして欲しい、というありがたいお話もいただき、かなり迷いましたが、私は次のステップを歩むことにしました。
次に移ったのは医療業界でした。医療機器メーカーの日本コーリンが経営破綻して、カーライル傘下のコーリンメディカルテクノロジーとして再出発しようというタイミングで「経営を建て直すならベインにいた笹井はどうか」と、当時カーライルに勤務しコーリンの投資案件に関与していた知人が考えてくれたようです。ベイン在籍時から「企業の再生局面で現場の仕事をしてみたい」と考えていた私にとっては、チャレンジしがいのあるお話でしたので、喜んでお引き受けしました。
実はベイン時代にもヘルスケア産業は担当したことがなく、全くの未経験領域ではあったのですが、無知のなせる技なのか、そこは躊躇する要因にはなりませんでした。とにかく優れた技術力と販売力を持つコーリンという企業を建て直す。そのことに集中し、無我夢中で取り組みました。2005年にはカーライルがイグジットを果たし、会社はオムロン傘下へと移行することになったのですが、オムロンヘルスケア社長の赤星慶一郎さん(当時)から直々に「あなたにお任せします。思い切ってやったらいい」と言っていただき、新生オムロンコーリンの社長に就任しました。
当時のオムロングループ各社の社長は皆ほぼ50代でしたので、37歳だった若造の私に経営を任せるというのは、異例の決定だったはずですが、赤星さんはじめ、オムロン経営幹部のこの時の判断を今も心から感謝しています。
そして同じ時期、私はもう1人素晴らしい出会いがありました。経営共創基盤CEOで、当時(現在も)オムロンの社外取締役であった冨山和彦さんです。もちろんお名前は産業再生機構の頃から知っていましたが、きちんとお会いしてお話をする機会を持てたのはこの時が初めてでした。
きっとベインのコンサルタントだった時にお会いしていたら、同業者ということになりますし、冨山さんは大先輩ですから、違った関係になったかもしれないのですが、事業会社の社長として出会った私を、冨山さんは「生身の経営を知っている人間」だと評価してくださいました。そしてこれがご縁となり、4年後に私がオムロンコーリンを退任した折、経営共創基盤に入社することになりました。
せっかく事業会社の経営者になれたのに、なぜまたコンサルティングをする側に? という気持ちは自分の中にも多少はありました。しかし、経営者になれるならばどこだっていい、というわけではありませんし、何よりも冨山さんが私のことを「経営経験の持ち主だからこそ、自分の会社のパートナーにしたい」と考えてくれたことも私の背中を押しました。
国家的な大企業の再生など、コンサルタントとしてはエキサイティングなプロジェクトに関わることができたのですが、現場から2年半も離れたことで、経営現場のリアルな感覚が失われてしまうリスクを感じ、次のステップを考えました。その時にも、冨山さんは私の真意を理解し、快く送り出してくれました。その後バイエル薬品での経営企画担当役員の業務を経て、現在のセント・ジュード・メディカルに入社いたしました。