[1]自己紹介をお願いします
私が就職活動をしていた1980年代中盤は、銀行など金融機関に人気がありました。しかし、私が希望したのはメーカーもしくは商社。その最前線で働くことを夢見ていましたから、東レに入社後は営業部門での仕事を希望したのですが、配属されたのは人事部門でした。
別段、人事の仕事に不満があったわけではないのですが、その後も機会があるごとに営業への異動を希望し続け、気づけば入社8年目に突入。ようやく巡ってきたチャンスが、米国への駐在研修生募集というもの。これになんとか選ばれ、渡米することになりました。
通常、研修生の駐在期間は1.5年なのですが、人事からの派遣ということで私だけは別の扱いで研修生ではなく、海外出向に切り替え。ロードアイランド州にあるフィルム会社(本社・工場)に赴任し、当初2年と言われていたのが、他のアメリカにある東レの関係会社を含めいろいろなことに対応しているうちに駐在期間が延びていき、6年半を過ごしました。私にとってこの6年半の経験が非常に大きな転機になったのです。
帰国後も人事部門に戻りましたが、任されたのはグローバル人事。すでに東レは世界各地に拠点を持っていましたので、こうした役割は不可欠でした。ここでも価値ある経験を得たのですが、海外の関係会社時代に比べるとスピード感や物事が動いていくことへの影響力は本社ということもあり限られていました。
そのような時期に、GEが人材を求めているという話をいただいたのです。このころには私もHRの領域で生きていこうと決めていましたし、そういう者にとって、人材育成やリーダーシップ醸成に関する取り組みの高度さが世界的に知られているGEは魅力的でした。転職を決意し、移ったのが当時GEのグループ企業だったGEエジソン生命だったのです。
GEエジソン生命では、C&B(Compensation & Benefit)のヘッドとしてGE流のC&Bへの制度改定や変革に取り組みました。並行して、デューデリジェンスやインテグレーションといったM&A関係の業務にも深くかかわりました。そこでは、GEならではのスピード経営のもと、常に素早く物事を捉え、判断し、結果を出すということが求められ、100メートル走を毎日やっている感覚でしたが、手応えを実感できる仕事でもありました。
結局入社から数年で会社が丸ごとAIGグループに売却されることになり、GE流の仕事にやりがいを感じていた私は、これを機に再び転職することを決めました。ありがたいことにDHLからお話をいただき、HRのリーダーとして入社することになりました。
DHLはなんといっても世界の物流業界のトップリーダーです。そういう大きな組織でHRを一手に任せてもらえる喜びに加え、それまで経験したメーカーや金融系企業とは異なる事業内容や組織風土にも新鮮な魅力を感じ、充実した日々が続きました。
執行役員のポジションに就き、入社から8年が経過したころには、年齢的にも50代に突入していましたし、組織も安定していました。ですから、キャリアをここで終えても何の問題もなかったと思うのですが、どうやら私には新しい刺激を求める気持ちが強いらしく、ベーリンガーインゲルハイム ジャパンからお話をいただいた時には大いに気持ちが動きました。
メーカー、金融、物流の会社を手がけてきた私にとって、ライフサイエンスの領域は未経験の刺激的な場です。2012年当時から、この領域は非常に元気がありましたし、ベーリンガーインゲルハイムの方々にお会いして、「非常に人を大切にするカルチャー」が根付いていることもわかり、惹かれました。そうしてこの会社にやって来たわけです。
[2]現在の社内での役割について教えてください
ベーリンガーインゲルハイムのコア事業は3つあります。医療用医薬品と、コンシューマー向けのOTC医薬品、そして動物用医薬品です。日本市場でもこの3つの主要事業に合わせ3つの事業会社が活動しています。医療用分野は日本ベーリンガーインゲルハイム、OTC分野はエスエス製薬、動物用分野はベーリンガーインゲルハイム ベトメディカ ジャパンがそれぞれ担っています。
私が籍を置くベーリンガーインゲルハイム ジャパンは、製造会社のベーリンガーインゲルハイム製薬を含めた4社のホールディングスカンパニーであり、バックオフィス部門が集まり、グループ全体のマネージメントを担っています。ですから人事本部長となった私の役割も、日本で活動するこれらの会社の組織と人を取りまとめ、統括していくことにあります。
ベーリンガーインゲルハイムはそのビジネスの規模でも世界トップ20に入っているのですが、特徴として言われているのが「世界有数の株式非公開製薬メーカー」という点です。
そうした経営の背景もあってか、猛スピードで変革を遂げながら短中期的な成長を優先する企業というよりも、長期的な視点も踏まえて事業や人財育成に臨むことで、他社に真似のできない成果を上げ、着実に成長してきた企業。それゆえに企業風土も私が以前いたGEとはまったく違います。
「人を大事にし相互尊重を重んじる会社」という印象。激烈な競争を良しとするGEも、もちろん人を大切にしていましたが、ことの善し悪しとは関係なく、ベーリンガーインゲルハイムならではのカルチャーや価値観が組織と人に深く根をおろしています。私としては、この風土の良さを大切に守る一方で、競争の激しい医薬品業界でさらに成長していけるような変化を促進し、戦略を成功させ、成果を上げていくことが使命なのだと自覚してもいます。[3]小中学生時代はどんなお子さんだったのでしょう?
まあ普通の子どもでしたよ。そこそこ勉強もするけれど、ヒマさえあれば近所の空き地で友だちと遊んでいるような、そういう普通の子です。ただ、なんとなく真面目そうな風貌だったせいか、親や先生など大人受けが良くて(笑)、学級委員をやらされたりはしましたね。[4]高校、大学時代はどのような学生でしたか?
高校は公立校に入学したのですが、そこで野球部に入部し、毎日が野球漬けという高校生活を送りました。公立校ですし、激戦区の東京ですから、甲子園出場なんていうのは夢のまた夢でしたけれども、私が1年生のころには上級生が頑張って西東京地区の予選でベスト8まで進出する快挙を手にしていました。
私としても試合に負けて悔しい思いをしながらも、達成感の得られる3年間を過ごしたと思っています。とにかく3年間をやりきったという経験や自信は、その後の私を支えてくれました。ところが大学に入ると一転して、「毎日を楽しもう」という方向性に(笑)。テニスサークルに入って、一応ちゃんと競技も練習もしましたが、いろいろと楽しく遊ぶ毎日でした。
とはいえ、この当時に親交を深めた仲間たちとは社会に出てからもつき合いが続いています。一緒に飲みに行っては互いに刺激しあうというような価値あるネットワークとなっています。[5]ご自身の専門性をいつごろ決めたのでしょうか? その理由についても教えてください
冒頭にも申し上げたように、もともと人事の仕事を望んでいたわけではなく、会社から配属されてやっていたというのが20代の頃です。「この領域で生きていこう」と腹を決めたのは31歳のころ、8年目になって渡米が決まった時です。
営業か海外という希望の一方を会社がかなえてくれたこと、年齢のことも考え「これから違う畑でゼロから専門性を磨くのには無理もある」という発想もあったのですが、アメリカに渡ってみて、そこでの仕事が非常に充実したものだったことで、ポジティブな気持ちでHRを自分の領域にしようと考えるようになりました。
正直なところ、英語力は高くありませんでした。海外駐在員に選ばれたくて付け焼き刃の勉強はしたものの、結局本当に役立つ英語力を獲得できたのはアメリカに行ってから。現地でも週に2回、家庭教師に教えてもらい、業務でも英語を使っているうちになんとか話せるようになりました。そして、これが強みの1つになって、その後の外資系企業での仕事にも役立っていきました。